卑弥呼は「邪馬台国の女王」でもないし本名でもない

2冊目。『研究最前線 邪馬台国 いま、何が、どこまで言えるのか』 (朝日選書 2011年) 。タイトルを見ると俺が求めている邪馬台国研究の現状を知る本のように思える。たが、この本は考古学が中心のようで文献史学はあまり触れられていないようだ。もちろん考古学も重要だが、俺が知りたいのは文献史学の方だ。


読み始めると1冊目とは違ってこっちはつまづくことなくスラスラと読める。つっこもうにも考古学についてはあまりにも無知なんでつっ込めないということもあるけれど。


文献史学については「第5章 考古学では不十分 吉村武彦」で触れられている(p97〜p121)。基本的なことはわかりやすく説明されていて有益だけれどあまりにも短すぎる。他にも論点はいっぱいあるはずだがこれだけでは入口にしかならない。


ところで「Ⅲ 倭国邪馬台国」の冒頭に

(前略)卑弥呼邪馬台国の女王といえるのかどうか、です。いま、高校の教科書にも卑弥呼邪馬台国女王と書かれており、定説のようになっています。(中略)西嶋さんと仁藤さんとでは、部分的には解釈の違いがありますが、大局的にみると卑弥呼倭国の女王と理解することでは一致しており、その見方は正しいのではないでしょうか。邪馬台国倭国の盟主国で、卑弥呼はその首都邪馬台国に住んでいます。その卑弥呼は、邪馬台国の出身で倭国の女王である可能性と、邪馬台国の外から来ていることも可能性としてはあります。

とある。


俺も卑弥呼倭国倭国連合)の女王だと思う。というか魏志倭人伝を素直に読めばそうとしか読めないだろう。俺は邪馬台国研究の歴史に無知だけれど、江戸時代とか明治初期にそういう認識があったというのならわかるが、なぜ未だに「定説のようになって」いるのかが全く理解できない。


ただし、あくまで「定説のように」であって学界では定説ではないのではないかと思う。遠山美都男氏の『卑弥呼誕生』でも

卑弥呼というのは邪馬台国の女王ではありえず、倭国全体の王として把握され描かれている、

と書いてある。


学界の定説は「卑弥呼倭国の女王」であろう。俺はそれにケチをつけようというのではない。常識的に考えれば「卑弥呼倭国の女王」である。問題は、であればなぜ未だにこういうことを言い続けなければならないのかということだ。


他にも論じるべきことはいっぱいあるのだ。それなのにこの問題を大々的に取り上げなければならないのはなぜなのか?「卑弥呼邪馬台国の女王ではなくて倭国の女王」と簡潔に書いて済ますことはできないものか?


未だに学者以外では「邪馬台国の女王」だと信じている人がいるから長々と説明するのか?この程度のことは素人でも平均的な国語力と常識があれば理解可能なことだ。もうそんなのは置いといて先に進もうよって思う。


もちろん「倭国の女王」が正しくない可能性はある。「倭人伝にはそう書いてあるけれど実は邪馬台国の女王に過ぎない」とか「倭国の女王ではあるけれど邪馬台国の女王でもある」みたいな説はありえなくもないだろう。「邪馬台国の女王が定説だが本当は」という話はもう飽き飽きしたが、「倭国の女王が定説だが本当は違う」という話だったら大いに興味を惹かれる。もうそういう段階に移行すべきではないのだろうか?



同様のことは「卑弥呼は本名ではない」ということについても言える(今のところこの本には出てきてないが良くみかける)。これも極めて常識的な話ではないか。「実は卑弥呼は本名である」という話なら面白そうだが、こんな当然な話を長々とするのなら別の問題を論じるべきであろう。


特に論じてほしいのは「台与(壱与)」のことだ。卑弥呼が本名でないのなら台与はどうなのか?遠山氏は「個人名」だとしている。しかし本当にそれで良いのであろうか?俺はこの問題は非常に重要であると思う。だが卑弥呼が本名ではないという話と比較すればこちらの検証は疎かになっているのではないだろうか?



※ なお俺は再三書いているように「卑弥呼は死んでない」というのが持論である。卑弥呼が死んでないのだから、台与は「卑弥呼職」を継いでいないのである。彼女は「狗奴国の女王」に就任したのである。すなわち「台与は狗奴国の女王の称号」と考えている。台与の女王就任により狗奴国は倭国連合に服属したのだ。トンデモと思われようと構わない。