台与(壱与)は実名なのか?(その1)

卑弥呼が個人名ではないというのは今や大方の学者が支持しているところだろう。「卑弥呼」という表記はもちろん大陸側による漢字表記であり、中華思想によって東の蛮族の酋長だから「卑」という字が入っていると考えて良いだろう。


卑弥呼」は倭で何と呼ばれていたのかは不明だが、現代日本語で「ひみこ」「ひめこ」などに該当するものであろうと考えられている。いずれにせよこれは彼女の個人名ではなく役職や地位を表したものだというのは、絶対にそうだとは言い切れないものの妥当な考えであろう。


一方、通説では卑弥呼の後に男王が立てられたが国が乱れ、卑弥呼の宗女「台与(壱与)」が女王となったとされている。現在に伝わる『三国志魏志倭人伝では「壱与」だが、これも「邪馬壱国」同様「台」の誤伝と考えられ「台与」であろうという見解が支持されている。


「台与」の読みは「トヨ」で「壱与」だった場合は「イヨ」と読むのが一般的だ。そして、これは彼女の個人名だという説がどうやら学者の間では支持されているらしい(そもそもこの問題に触れているものが少ないので推測だが)。


『改訂新版 卑弥呼誕生』(遠山美都男 講談社現代新書 2011)には

 ヒコ・ヒメは、元来は神秘的な霊力をもつ男・女の意味である。したがって、ヒメコは固有の実名ではなく、地位についての尊称である。「台与」は実名(の一部分)「豊」であろう。地位を継承したときには二代目「卑弥呼」と呼ばれたのであろう。

という『新版・魏志倭人伝』(山尾 幸久 講談社現代新書 1986)の文を引用している。また、

なぜなら、卑弥呼という個人名をいもった実在の女性は皆無であったが、台与あるいは壱与であるならば、奈良時代の戸籍において大変ポピュラーな女性名だからである。しれがむしろ、極めてありふれた名前だったといっていい。

といい、例として大宝二年(七〇二)御野(美濃)国味蜂間郡春部里戸籍をあげている。それによると「トヨ」と読める「止與賣」「豊賣」などが見つかるといい、また「イヨ」は「衣夜賣」などがあるという(p69-70)。


一方「ヒミコ」あるいは「ヒメコ」を個人名とする女性は確認できないが、類似する名前としては、神亀三年山背国愛宕郡出雲郷雲上里計帳に「出雲臣比賣」という名前があるが、それはかつての「ヒミコ」や「ヒメコ」とは直接の関係をもつものではなく、むしろ「ヒミコ」「ヒメコ」が形骸化した姿と考えるのが妥当としている(p58)。



大変説得力があるように思われるが、しかし、それで決まりかというと俺は大いに疑問があるのである。