昨日の補足

昨日、「ネット右翼」の定義の変遷(長文)って記事を書いたんだけど、その後、検索していたら、
右を見ても左を見てもレッテル
http://d.hatena.ne.jp/plummet/20060331/p1
という記事があった。
俺がplumme師匠のこと知ったのは、「小倉騒動」の時じゃなくて、その後に起こった「花オフ」(「花デモ」ともいう)騒動の時じゃなかったかと思う(それ以前にも見たことがあるかもしれないけど記憶がない)から、気付かなかった。参考になりました。


(追記:ってよく見たら今年の記事だった。しかもブクマしてた。)

「サヨク」「プロ市民」は罵倒語か?

で、「ネット右翼」という用語が、もしかしたら、「サヨク」とか「プロ市民」という用語の反作用として出てきたものかもしれないと想像したりするのだけど、どうなのだろう?


どうもネットを巡回してると、「サヨク」「プロ市民」を罵倒語であるかのように思っている人がいるらしくて、「ネット右翼」という用語には敏感なのに、「サヨク」「プロ市民」は気にせず使っていると、そんな論調があって、そこに違和感があるんですね。だって、俺の認識では「サヨク」「プロ市民」という用語は、ある種の人々にとっては否定的なニュアンスを含む用語であるとはいえ、罵倒語ではないと思っているからです。しかし、こちらも用語の定義が変遷しているのかもしれません。このへんがよくわからない。
一応俺の考える「サヨク」「プロ市民」とは何かということを書いておきます。

「サヨク」

この用語が使われだしたのは、70年代後半から80年代にかけてではなかったかと思います。
見ての通り、「左翼」と漢字で書くのに対し、「サヨク」とカタカナで書くわけですけど、それはどうしてかというと、ここで言う「左翼」とは、マルクス・レーニン主義等のイデオロギーを信奉して行動する左翼のことであるわけです。ところが、理想的なイデオロギーだと信じていた、マルクス主義思想等が、現実にはソ連や中国や北朝鮮の現状、あるいは日本での内ゲバの惨状等を目の当たりにして、本当に自分達が信奉していたイデオロギーは正しかったのだろうかという疑問を持つ人が増えてきたわけです。そういう人達は、しかしながら、体制側に「従順」になることもできず、宙ぶらりんな状態になってしまったのです。
そういう世相を反映して、三田誠広氏が『僕って何』という小説を発表して、芥川賞を受賞しました。(1977年。ちなみに未読。)また、1983年に島田雅彦氏が『優しいサヨクのための嬉遊曲』という作品を発表しました。(これも未読)また、「しらけ世代」という言葉がよく使われていました。「しらけ鳥音頭」なんてのも流行っていました。(関係ないか)
そんなわけで、「サヨク」とは何かということが、マスコミでも取り上げられるようになったのだと思います。俺の記憶では、朝日新聞が熱心に取り上げていたんじゃなかったかと思うのですけど、大昔のことで、こっちはガキだったんで、勘違いかもしれない。
その後、「ソ連」の崩壊で、それまでもちこたえていたマルクス主義は、大打撃を受けることになります。特にアカデミズムの世界では大きな影響があったようですが、門外漢なもんでよく知りません。とにかく、かつてマルクス主義を基盤にしていた人たちは、これからどう行動すればよいのか路頭に迷ってしまい、新たな道を探し始めたわけです。
そんで、ヨーロッパの左翼を見習ってみるとか、イデオロギーによらない市民運動みたいなことを模索するようになったわけです。
そういう人達のことを、「左翼」(マルクス主義者)ではないが、「左翼的」な人達という意味で「サヨク」という用語を使うようになったのだと思います。要するに「マルクス主義者」と区別するための造語という以上の意味はないと思います。

「プロ市民」

この用語は、元々、「自覚・責任感を持つ市民」という意味だったそうですが、普及せず、現在と似たような意味で使われだしたのは最近のことのようです。(ウィキペディア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%AD%E5%B8%82%E6%B0%91
ただし、用語は使われなくても、同様の問題提起は、やはり70年代後半から80年代にかけて既にありました。
一つは「市民運動」は市民といっても、実は、特定の思想団体に所属する人達が、「市民」を隠れ蓑に活動しているという批判的なもの。
もう一方は、これも確か朝日新聞だったのではないかと思いますけど、「なぜ日本では市民運動が大きな支持を得られないのか」というような問題提起として、市民運動が、特定の思想集団に乗っ取られてしまい、大衆の支持が得られないということに懸念を示していたのではなかったかと記憶しています。
具体的には、ある問題について普通の市民が集まって市民団体を結成して、ある程度成果をあげる。そこにある人物が加わる。最初は、ただの正義感から参加したように振舞い、目立たない存在である。彼(彼女)は知人を団体に参加させたりして、元からのメンバーは素直に喜んでいたのだが、ある時期を境に、突然集会を仕切り出す(例えばその市民団体の本来の目的とは関係ない政治的行動を提案する)。気付いた時にはそれに賛同するメンバーが大勢いて、異論を述べる者は徹底的に批判され、追い詰められる。やがて、元からのメンバーは一人抜け二人抜け、完全に乗っ取られ、ある思想集団の傘下組織同然となる。みたいな話だったと思います。
批判的な立場からは、だから市民運動など相手にする必要がないということになり、一方、市民運動支持の立場からは、そういうやり方では衰退してしまうという危機感から、取り上げられるわけです。
そういう、本来の目的は特定のイデオロギーに基づくものであるのに、表面上はそうではないように見える団体に所属する人達が俺の認識する「プロ市民」なわけですが、「ウィキペディア」の説明は違っています。「ウィキペディア」の説明はどうもピンとこなくて、現在、実際に使われている「プロ市民」がそういう意味で使われているのか、疑問です。
それに該当しない人に対して、そういうレッテルが貼られたからといって、それが必ずしも定義が変更されたということにはならないと思うのですが、どうなんでしょう?前にも書いたように「おまえの母ちゃんデベソ」が「デベソ」でなくても使われるからといって、「デベソとは母親のへそのことである」とはならないと思うんですよね。「ネット右翼」のように、新しい定義が生まれることもあるから、よくわかんない。


というわけで、「サヨク」とはあくまで、分類上の言葉であって罵倒の意味は含まれない。「プロ市民」はそれに該当しない人に対して使われる場合は「不当なレッテル貼り」であるが、該当する人に使われる場合は、それ自体に罵倒の意味はなく、分類上の用語にすぎず、「プロ市民→けしからん」というような説明があって初めて批判の意味が発生する。「サヨ」は「サヨク」に対する罵倒語。「ネット右翼」は罵倒語(ただし最近はそうであるとは限らない)であると同時に、ある定義には該当しても、別の定義には該当しない者を、そうであるかのように印象付ける効果がある用語。であると俺は思います。


以上は、あくまで俺の認識であるから、それは違うという人もいるでしょうけどね。

「ネット右翼」批判は、「ネット右翼」の陰謀?

知る人ぞ知る「阿修羅掲示板」。2年前にこんな書き込みがあったのを見つけた。
ネット右翼」批判サイト運営者がネット右翼という問題
http://www.asyura2.com/0403/idletalk9/msg/995.html


ネット右翼」に対する、レベルの低い批判は、
ネット右翼」を批判する人というのは、こういうレベルの低い人なのだという印象操作をするための、
ネット右翼」の工作だという、「陰謀論」である。


今も昔も、相変わらず、あそこでは「陰謀論」が花盛りである。
実際、そういう可能性もあるかもしれないが、真相は知らない。
真相がわからないものを、どっちの方に解釈するにしても、慎重にするべきである。


しかし、気持ちはわからなくもない。
こんなものが、自分達の「味方」であるなんて信じたくないのも当然であろう。
だが、実際は、ここが違うとしても、似たようなレベルの低い批判をやっている、彼らの「味方」は山ほどいる。


陰謀論」は嫌いだが、それでも、人間としては、まだましじゃなかろうかと思う。
そういう「無能な味方」に同意するとか、そこまでいかなくても、都合の悪いことを無視して、批判しているという共通点だけで、仲良しになっている人がいるのである。感覚が麻痺しているのだろう。