遊女は聖なるもの(1)

小谷野敦先生の「猫を償うに猫をもってせよ」がプライベートモードになってしまった。毎回楽しみに読んでいたのに残念。まあ、先生はネットを止めたわけじゃなくて、あちこち出没しているみたいなので、またいつか復活されることを希望します。


ところで、俺が小谷野先生に興味を持ったのは、今年3月に、沖浦和光氏の『「悪所」の民俗誌』を批判した日記を拝見したのがきっかけ。先生は「遊女は聖なるもの」であるというのが気に入らないようだ。


興味を持って調べてみたら、丁度その頃、佐伯順子氏の『遊女の文化史』の書評を巡る論争に関する先生の話題がネット上で盛り上がっている最中だった。これもまた「遊女は聖なるもの」問題に関連しているんだけど、たまたまなのか、繋がっているのかはわからない。で、ネット上で盛り上がってはいるんだけど、それは「論争」について盛り上がっているのであって、論争の中身で盛り上がっているのではない。中身にはあんまり興味がないようだ。しかし、俺が関心あるのは、「遊女は聖なるものか否か」ということ。何で先生が「遊女は聖なるもの」であるのが気に入らないのかが知りたい。


ちなみに俺は「遊女は聖なるもの」と考えている。しかし、先生のように学があるわけではないから、確信を持ってそう言えるわけではない。


で、4月1日に
『「悪所」の民俗誌』読了
を日記に書いた。そしたら、小谷野先生のコメントが!

『考える人』連載中の「売春の日本史」を読んでください。


で、図書館行って読んできた。次に『江戸幻想批判』も読んだ。読み応えはあったんだけど何かモヤモヤしたものが。モヤモヤしたまま半年が過ぎてしまった。

(つづく)