前置きが長くなった。疑問に思ったことは何かというと、小谷野先生と『絶望書店日記』管理人との論争。
ここでは、『江戸幻想批判』における「吉原の女郎の平均寿命が二十三歳」という記述について論争されているんだけど、それはともかく、根本的にわからないのは、遊女が悲惨だったか否かと、遊女が聖なるものであるか否かとは関係があるのかということ。何となく思うだけだけど、先生の頭の中には「幸福=自由=聖」という図式があって、遊女はその逆だから、聖なるものではないと考えているような気がする。
でも、「悲惨」と「聖」が関係あるとして、「悲惨=不自由=聖」という考えもあるのではなかろうか?例えば生贄とか、禁欲とか。プーケットのベジタリアン祭りなんか顔に串を刺しちゃっている。ちょっと違うかもしれないけど、女性の水死体は「美人」だし。
ややこしいのは、一方では、遊女は自由で聖なる存在だったという人がいる(らしい)ということ。小谷野先生はそういう考えに反感があるのかもしれない。ちなみに佐伯氏の『遊女の文化史』には、
文学にあらわれた遊女像は、現実の遊女の残酷な生活とはかけ離れたものであろう。
と書いてあるので、そういう種類の人ではないだろう。その後考えが変わったのかは知らない。
ただし、小谷野先生は、『売春の日本史』では、
最初に断ったとおり、私は、悲惨な生活をしていた遊女を聖なるものなどと呼ぶのはケシカランという価値判断をしているのではない。そのような事実はなかった。あるいは証明されていないと言っているのだ。
と書いていて、主に遊女が悲惨だったいうこととは別の視点で「聖なるもの」という主張を批判している。で、それについて論じる能力は俺にはないので、「聖なる派」の先生方に頑張ってもらいたい。