「共通認識」を生み出そうとする努力をしない人、それが内田先生

内田先生かつてかく語りき

つねづね申し上げているように、私の判断の多くは「経験的事実」に裏打ちされた「直感」と「論証なき決断」によって構成されている。 
どの「事実」を「経験的にたしかなこと」として選択するかは私の判断に委ねられており、であれば、「事実が私の判断を基礎づけた」のか、「私の判断が事実を選択させている」のかを私自身は言うことができない。
この点において、上野先生が上野千鶴子に向けている批判はそのまま私にもあてはまる。
私がそれでも「いい加減なことをいうやつだ」という以上の批判を識者から受けることがないのは、私がぎりぎりのところで「自分がどれくらい信用できない人間であるか」の告知義務を果たしているからである。

内田樹の研究室: 社会理論の汎用性と限界


何のことはない。先日の記事で内田先生が「橋下」という人物に仮託して語っているのは、実のところ現実の橋下氏ではなくご本人のことなのだ。


仮託された「橋下」という人物と異なるのは「自分がどれくらい信用できない人間であるか」を告知しているかしていないかだけである。内田先生はそれで免罪されると考えているのである。


内田先生は論争しないことで有名である。ウィキペディアにも載っている。

かつては、ブログにはコメント機能が設けられており、しばしば主張への批判や反論も書き込まれていたが、本人からの反批判や再反論は少なかった。これについて内田は、「どちらが正しいかは読んだ人の判断に任せる」との立場を取っていた。

内田樹 - Wikipedia


論争は勝ち負けを競うだけではなく、共通認識を作り上げる場でもある。しかし内田先生はそれをしようとしないのである。


そんな人間があの記事を書いたのである。


(これでおしまい)