何のためのニセ科学批判なのか

リスク社会における公共的決定2――「トンデモ」批判の政治性と政治の未来 - on the ground

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を見て思うところ。


正直、俺は未だにニセ科学批判とは何なのかを正確に理解できているとは思っていないことを最初に断っておくけれど、俺の認識ではニセ科学の問題とは、たとえば血液型性格判断や「水からの伝言」が真っ当な科学として科学界において支持される恐れがあるということではないはずだ。そんなことが起きる可能性は限りなくゼロに近い。


問題は科学界の外の一般人における問題であって、仮に一般人の大半がそれを信じることがあったとしても、(科学者の人材不足が生じるとか、科学関連予算が削られるというような影響はあるかもしれないが)それが科学的正しさに直接の影響を及ぼすことはないはずだ。科学的な「正しさ」は国民の多数決で決まるものではない。


従って、真実を追究するのが科学であるならば、科学者は「外野」がどんなニセ科学を信じていようと関係ない。ひたすら真実を追究するための研究に邁進していればよいのであり、事実そういうスタンスの科学者も多いと思う。だが、ニセ科学が社会的な悪影響を及ぼすのをほっておいて良いのかという問題があり、そこから「ニセ科学批判」というものが出てきたのだというのが俺の認識。


すなわち、ニセ科学批判は科学的な知識でもって、科学に対する知識の不足している人が被害に遭わないようにするための運動であり、科学界における科学的な素養を持つ科学者同士の論争ではない。


科学者同士の論争であれば、理詰めでやって何ら問題はない。というか、そうでなければならない。批判に対し説得力のある反論ができなければ受け入れられることはない。アマチュア研究者がプロに挑戦する場合も同様だ。プロ・アマ問わず科学的手法を通してでなければ、それが科学界において科学として認められることはない。


だが、ニセ科学の問題は科学界の外の話。科学的素養の足りない人達に対してどう働きかけるかという問題。


一つの方法は一般人の科学リテラシーを高めるということ。これはもちろん必要なことだろうけれど、全員がそれを身に付けることができるかといえば、それは無理でしょう。そして、身に付けることができないからといって、蔑視したり、差別したり、迫害したり、「自己批判」を強要するなんてことになったら問題有(俺はこの点で大いに懸念するところがあるんですけどね)。


一方、リテラシーを高めなくても別の方法でも実現できることはあるわけです。たとえば「規制」とか。俺は医学の知識なんて皆無に等しいけれど、医者にいけば科学的な治療が受けられると信じている。それは様々な規制があるからであって、それが無ければ自己責任で科学的な医療を受けられる医師を探さなければならない。ニセ科学だとされる医療行為を望んでも保険は適用されない。俺は「小さな政府」を支持するから、規制は少なければ少ないほど良いとは思うけれど、なんでもかんでも無くせとは思わない。ニセ科学による被害が深刻なものならば、言論の自由等との兼ね合いもあるけれど、規制が止むを得ない場合もあるかもしれない。


すなわち、「ニセ科学批判」の目的が、被害防止であるならば、それは何も正しい科学リテラシーを身につけさせることだけが、唯一の方法ではないということ。


(ちなみに、そうではなく、ニセ科学が世間に横行しているのが気に食わないから批判しているのだという科学者がいるのであれば、そんな外野のことは気にせずに、ひたすら本業である自己の研究に没頭していただいた方がよろしかろうと俺は思う)