「ニセ科学」はなぜ批判されなければならないのか

PseuDoctorの科学とニセ科学、それと趣味: P02-06: 「科学的に間違っている」はニセ科学批判の中で最も簡単な部分です

ニセ科学とは「科学ではないのに科学を装っているもの」です。
ですので「ニセ科学を批判するには、それが科学ではない事を示せば良いのだな」と思ってしまいがちです。そう考えるのは、素直と言いますか、確かに自然な感情だと思います。
しかし、現実のニセ科学問題は、それほど単純ではありません。

まず「科学ではないのに科学を装っているもの」は一般的に疑似科学と呼ばれています。

 なお、同様の文脈ではむ しろ「疑似科学」という言葉のほうが広く使われている。敢えてその言葉を避けて 「ニセ科学」と呼ぶのは、文脈によっては「疑似科学」という言葉が褒め言葉になる からである。具体的にはSF小説ファンタジー小説の批評などで”よくできた疑似科 学的説明”などという表現が使われる。「疑似」という言葉には価値判断が含まれな いということであろう。「ニセ」という言葉は否定的な意味合いを強く含むので、こ ちらを採用する。私自身、「疑似科学」と呼んでいた時期もあるのだが、上述の理由 で違和感がつきまとうため、最近は「ニセ」で統一している。

ニセ科学入門


すなわち「ニセ科学」と呼ぶ場合、既に「科学ではないのに科学を装っているもの」というだけではなく否定的な意味が含まれていることになります。
(ただし「ニセ科学」という言葉は菊池誠教授が使う前から使用されていたものであり菊池教授の「定義」に従わない「ニセ科学」の使用法もあります。したがって定義が明言されていない場合、どういう意味で使っているのかわからないという、かなりグダグダな状況になっていますが)。


さて「ニセ科学を批判するには、それが科学ではない事を示せば良いのだな」ですが、科学として出来るのは「それが科学ではない事」を示すことのみであります。例えれば「それは砂糖ではなくて塩だ」と言うようなものであって、塩であることが悪いとかそういった意味は含んでいません。


それに対して「ニセ科学を批判する」という行為そのものが科学の範疇を超えたものであります。すなわち単に「それが科学ではない事」を示すという行為であっても批判のためにそれをするのであれば、既に科学の範疇を超えているということであります。


だからといって「ニセ科学」を批判してはいけないということにはなりませんが、「ニセ科学」を批判するのは当然だという前提で語られることには違和感があります。それについては他の記事で触れられているのかもしれませんが、この記事で気になるのは

かなり難しい話になってしまいましたので、なるべく単純化して再度まとめます。責任とは「行為を行った意思」に対するものと「行為を行った結果」に対するものがあるという事です。そして、善意で行った行為の場合でも「前者の責任は免責されるかもしれないが、後者の責任は免責されるとは限らない」となります。

という部分です。それは現代日本においてはそうであるということです。もちろんアメリカその他の先進諸国においてもそうなのでしょうが、絶対的普遍的なものではありませんし、科学的に正しさが証明されるような性質のものでもないでしょう。


したがって、疑似科学の信奉者に「前者の責任は免責されるかもしれないが、後者の責任は免責されるとは限らない」と言って説得するのは「今の日本ではそうなっているのだからそれに従え」と言ってることに他なりません。


ただし、それが悪いというわけではありません。俺が考える疑似科学が否定されなければならない理由は現代社会では科学が有益なものとして大多数に支持されているから」というものであります。現代社会はそういう社会なのだから、それにたとえ同意できなくても従わざるをえません。


ただ、この記事を読んでそれを読み取れる人がどれだけいるだろうかということに疑問を感じるのであります。