日光東照宮の桔梗紋と日枝神社

土曜ワイド劇場「おかしな刑事〜居眠り刑事とエリート警視の父娘捜査 日光鬼怒川明智伝説がつなぐ二つの転落死体!光秀は生きていた?」


相変わらず「天海=光秀」説が流行ってますね。


その根拠の一つ

日光東照宮陽明門にある随身像の袴に光秀の家紋である桔梗紋[12]がかたどられている事や、東照宮の装飾に桔梗紋の彫り細工が多数あること。

明智光秀 - Wikipedia


脚注によれば、

内側の花が桔梗で明智光秀を表していると解釈して、光秀=天海説の根拠の一つとされることがある。ただし、桔梗紋の花弁と木瓜紋等に用いられるの唐花とは花弁先の尖り具合が異なり、随身像の紋は桔梗紋というよりは木瓜紋の唐花に近い。

ということなんだそうだけれど、桔梗紋だろうが木瓜紋だろうが、一体何故って疑問に思うし、それについて納得のいく答えを見たことがない(だからこんな説が出てきたんだろうけど)。



ところで、俺が前から気になっていた写真がある。
日枝神社の神門(私立PDD図書館)

千代田区永田町にある日枝神社の随神像。途切れてるんでわかりにくいけれど、膝のところにある紋が桔梗紋っぽいですよね。


もっとわかりやすい写真はないかと検索して見つけた記事。
赤坂日枝神社(こまたろうと行く神社のススメ)


日光にある随身の家紋と似てますよね(微妙に違うようにも思うけど)。


ちなみにWikipediaの説明には、

創建の年代は不詳である。文明10年(1478年)、太田道灌江戸城築城にあたり、川越の無量寿寺(現在の喜多院)の鎮守である日吉社を勧請したのにはじまるとされる。他に、熊野那智大社貞治元年(1362 年)の文書に「武蔵国豊島郡江戸郷山王宮」の記載があり、これが現在の日枝神社であるとする説もある。徳川家康が江戸に移封されたとき、城内の紅葉山に遷座し、江戸城の鎮守とした。

日枝神社 (千代田区) - Wikipedia
とある。


喜多院とは、

平安初期の天長7年(830年)、淳和天皇の命で円仁(慈覚大師)が建立し、当初は無量寿寺と号した。無量寿寺には北院、中院、南院があり、永禄年間(1558年−1570年)頃まではこれらの3院が存在していたが、江戸時代はじめに川越大火があり寺の多くの建物が焼失、中院のあった場所に仙波東照宮が建てられた為、中院はさらに200m南方に移動し、南院は明治の初めに廃院となり、その一角とされる場所には数十基の石の塔婆が残っている。天正16 年(1588 年)、徳川家の尊崇が厚かった天海が入寺し、寺号を喜多院と改めた。

喜多院 - Wikipedia


というわけで、こっちで「天海」つながりだったりする。日枝神社の線で調べてみれば面白いことがわかるかもしれない。