信長無防備説

本能寺に強固な石垣あった…「信長無防備説」覆す発見続々 : 文化 : 社会 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)


この見出しが現在は、
『焼けた?瓦出土、本能寺の変「史実を裏付ける貴重な発見」』
に変わっている。新聞の見出しが変わることは珍しいことではないのだが、それにしてもなぜ変わったのだろうかというのは気になる。


さて、「信長無防備説」と書かれていて、それが覆ったとなると、当然、これまでは「信長無防備説」というのがあったということになり、さらっと聞くと、確かに「信長無防備説」があったように思えてしまうのだが、よくよく考えてみれば、一般に「信長が無防備であった」というのは、兵力が少数であったことを指すものであろう。


それは本能寺に防御施設がなかったということとイコールではない。で、俺は特にその点に関心があったわけではないので、記憶がおぼろげだが、本能寺が無防備だったわけではないということは、既に指摘されていたように思う。学研から出ている歴史群像シリーズで図解されていたのを立ち読みしたような記憶もある。


手持ちの本の中に、それに言及したものがないか探したら、『戦史ドキュメント 本能寺の変』(高柳光壽 学研M文庫)に、

本能寺は当時四条西洞院にあった。そしてこの前に付近の民家は他所へ移転させ、四方に掻き上げの堀を掘り、その内側に土居を築き、木戸を設けて出入を警戒するという構えで、内に仏殿以下、客殿その他の殿舎を建て、厩舎までも設けてあるといった有様で、小城郭の観を呈していたが、まだ塀は塗らないであった。

とあった(この本は、1977年に出版された『本能寺の変山崎の戦い』を文庫化したもの)。


というわけで、今までも、信長がそういう意味で無防備だったと考えられていたわけではなかった。ちなみに寺を宿所とすることについては、秀吉も光秀を滅ぼし、清洲会議を終わった後、京都に入り本圀寺を宿所としており、信長だけが特別だったわけでもなさそうだ。


では、今回のニュースは、今まで文献資料で知られていたことが、遺物、遺構が出土したことで、裏付けられたというニュースなのかというと、どうもそういうことでもなさそうだ。


本能寺の無防備覆す 信長が“城塞並み”防御か(京都新聞)

 京都市中京区の旧本能寺跡で、「本能寺の変」の直接の証人というべき大量の焼け瓦が見つかった。瓦が埋まっていた堀には、堅固な石垣が積まれ、境内全域 ではなく特定の建物を守る堀だったとみられる。織田信長が全く無防備の状態で襲われたのではなく、城のように防備を固めていた可能性が出てきた。

ここでも「無防備」という言葉が使われているのがちょっとどうかと思うが、こちらの記事によると、

 ほぼ同時代の京を描いたとされる上杉本洛中洛外図(国宝)で、本能寺は瓦ぶきと板ぶきの建物が2棟ずつ描かれる。境内全体を囲む堀があったとみられるが、細かい部分は雲で隠れ、境内に堀があった可能性は知られていなかった。

ということで、「境内全体を囲む掘」があったことはわかっていたが、「境内」に掘があったことは、可能性さえ知られていなかったのだそうだ。このことは読売の記事を何度読み直したって知りようがない。


まとめ:今回の発見は、「今まで考えられていた以上に本能寺は堅固な防禦施設を持っていた可能性がある」という話だと思われる。