天文法華の乱と本能寺

ところで、京都新聞
本能寺の無防備覆す 信長が“城塞並み”防御か
にある、先生方の推測が興味深い。

 今谷明国際日本文化研究センター教授は「比叡山ににらまれていた再建時の法華寺院は、境内に堀は造れなかったはず。信長が寺を城塞(じょうさい)化するために造った堀だろう」とみる。堀は、掘った土砂を積み上げた土塁を伴うのが一般的だ。今谷教授は「堀や土塁で館を囲み、僧侶らが入れない特別な空間をつくっていたのだろう」と、信長が最期を遂げた館が堀の近くにあったと推測する。


 一方、西川幸治・同センター客員教授(都市史)は「防御施設にしては中途半端で、信長のパワーにふさわしくない。天文法華の乱を経験した寺側が設けたものではないか」と話す。

今谷明教授は、「比叡山ににらまれていた再建時の法華寺院は、境内に堀は造れなかったはず」と話す。なぜ、「法華寺院が比叡山ににらまれていた」のかというと、以下のような経緯があったから。


法華一揆ウィキペディア

しかし、日蓮宗の宗徒(松本久吉)が比叡山西塔の僧の説法を論破したのをきっかけとして、1536年(天文5年)7月、天台宗比叡山の僧兵集団が「法華一揆」撃滅へと乗り出す。延暦寺(山門)から約6万の衆徒が押し寄せ、京都洛中洛外の日蓮宗寺院21本山はことごとく焼き払われた(天文法華の乱)。かくして、隆盛を誇った「法華一揆」は壊滅し、日蓮宗徒は洛外に追放された。以後6年間、京都において日蓮宗は禁教となる。1542年(天文11年)に京都帰還を許す再勅許が下り、後に日蓮宗寺院15本山が再建された。


一方、西川幸治教授は、「天文法華の乱を経験した寺側が設けたものではないか」と話す。


今谷教授によれば「造れなかったはず」であるが、西川教授の意見はそれを考慮していない。逆に言えば、今谷教授の「造れなかったはず」という主張は学界の「定説」というほどのものではなさそうに見える。両論併記されているから、そういうことがわかるが、今谷教授の意見だけが載せられていたら、「造れなかったはず」の部分は大学教授の言うことだからと、簡単に受け入れてしまったかもしれない。それは肝心の「誰が作ったか」という問題を考える上に大きな影響力を及ぼす。歴史問題を考える場合、本題部分だけではなく、提出されている前提条件についても懐疑的な見方をしなければならないという好例ではなかろうか。


さらに注目すべきは、今谷教授と西川教授の推測の根拠とされているものが同じものであるということ。

  • 今谷教授は、「天文法華の乱」があったので、寺側は「造れなかったはず」と言い、
  • 西川教授は、「天文法華の乱」があったので、寺側が「設けたのではないか」と言う。

史実を基にしていても、そこから派生する考えが正反対になる場合があるという好例。


ちなみに前の記事で引用した、『戦史ドキュメント 本能寺の変』(高柳光壽 学研M文庫)には、

京都の日蓮宗寺院は、いずれも前に天文法華の乱(一五三六)で比叡山延暦寺衆徒の襲撃を受けて、和泉の堺に移転したが、その後、京都に復帰したものであった。それで敵の襲撃を予想して相当の防禦施設を持っていたかも知れない。そしてそれが武家の宿所となった理由であったかも知れない。

とある。