本能寺の変に新説(その2)

“信長御殿”簡素だった 「本能寺の変」の舞台で新説 (2/2ページ)

権力者の京都での御殿としては、豊臣秀吉聚楽第(じゅらくだい)や徳川家康の二条城などが有名。これら本格的城郭に比べ、信長が簡素な建物しか造らなかった理由について、今谷教授は本能寺御殿を建て始めるころ、大坂本願寺が落城寸前で、毛利攻めのため大坂へ本拠を移そうと意図していたと推測している。

正確に今谷明教授の発言を伝えているのかという問題があるけれど、記事を読む限りでは意味不明じゃないですかね?


大坂へ本拠を移そうとしていたかはともかく、京都には朝廷があるんだから、どっちにしろ京都に滞在する必要がありますよね。そりゃ日帰りできない距離じゃないだろうけれど、やっぱり宿泊施設は必要でしょう。


その宿泊施設がもし「簡素だった」としたら、それはなぜかという疑問に対する答えには、まったくなっていないように俺には見えるんだけど、どうなんですかねえ?