平和主義者こそ「大東亜戦争」と表現すべき

(実はこの記事、3日前にほぼ書き上げていたんだけれど、アクセス数が急増して危険を感じたので、しばらく寝かしていた)


平和主義者こそが、「我が国は、大東亜新秩序建設を大義名分として、近隣諸国に対し多大の被害を与えた。我々日本国民はこの過ちを反省しなければならない。然るにこの大東亜戦争という言葉は風化してしまった。先の戦争を太平洋戦争と呼ぶことは、この戦争の起きた原因から目を逸らさせ、ひいては戦争責任の回避になりかねない。二度とあのような過ちを繰り返さないためには、我々はこの戦争を大東亜戦争と呼び、現実を直視すべきである。」
と主張してもいいんじゃないのか?


なぜ「大東亜戦争」という呼び方を嫌うのか。一つは既に書いたように「タカ派」の中曽根首相を攻撃するために始まり、その後も「タカ派」を攻撃するために。


そして、もう一つとても重要な理由があると俺は思う。それは今回の朝日の報道に対する反応からも良くわかる。「戦争の美化」を嫌っているのだ。


って、そんなの当たり前のことだと思うかもしれない。だが、なぜ「大東亜新秩序建設」を目的とすることが「戦争の美化」になるのか?もちろん、当時こう名付けたのは、これが「正義の戦争」だという認識があったからだろう。


しかし、現在の目で見てもそれが「正義」なのかと言えば議論の余地があるはずだ。「その通り」と答える人もいるだろう。だが、そうでない人もいるはずだ。「当時の人は本気だったのだろうけれど今から見ればバカバカしいよね」みたいな事例はいくらでもある。迷信だとか、流行だとか。昔の雑誌に「ナウなヤングにバカウケ」って書かれていても、何でこんなのが流行したんだって笑い話になってることはいっぱいある。


ところがだ。「大東亜戦争」に関しては、こう呼ぶことを「美化」だと考える人が多い。つまりこれは、「大東亜新秩序建設」という考え方については、現在でも「良いことである」と考えられているということではないだろうか?で、肯定派は「あの戦争は正しかった」と言い、否定派は「実態は侵略戦争だった」みたいなことを言うのだ(現在の目で見れば間違っているが、当時としては正しかったという解釈をしているのだということも有り得るけれど、そういうニュアンスじゃないように見えるものも多い)。


肯定派についてはそのまんまだから単純だ。だが否定派の場合はちょっと複雑だ。良く見られる否定派の論理というのは要するに、「理念は良いがやり方が間違っている」「理念を隠れ蓑にして悪さをやった」というものだ(本人がどこまで自覚しているかわからないが)。あの戦争を「大東亜戦争」という「美名」で呼ぶのはおこがましいと思っているのだ。でなければこのような反応にはならないはずだ。一方、「大東亜新秩序建設」という理念自体を否定する人だったら、「大東亜戦争」という呼称自体が陳腐なものに見えるのではないかと思う。


で、最初に戻って、あの戦争を批判するに「大東亜戦争」という呼称を積極的に使うことは有意義なことだと考えることもできるのに、逆になっているのはなぜかってことになるのだが、そこには「ソ連共産主義ではない(我々の共産主義こそ本物だ)」という論理と似たようなものがあるのではないかと思う。別にそう思ってもいいんだけれど、そう思わない人もいるってことが頭の中からすっぽり抜けている感じがするのが気になる今日この頃。



※今日の産経コラム
【断 呉智英】「大東亜戦争」名称肯定論 - MSN産経ニュース
呉智英先生は、「理念は正しかった」派なんですかね。


あと昔書いた記事。
国家鮟鱇 - 朝日新聞は戦前と変わっていないのか?