武田信玄の孫

徳川家康のすべて』(新人物往来社)に載っていた興味深い話。


徳川家康が今川氏の人質だったとき、甲州から駿府に来ていた吉川守随という商人が家康に奉公していた。後に守随は老衰を理由に甲府に帰り、実子が代わりを勤めたという。


天正10年、武田氏は信長によって滅ぼされた。家康は旧知の守随を召し出そうとしたが、彼はすでに死亡しており、二代目吉川彦太郎信義が召しだされ、甲州の秤製作販売の特権を与えられたそうだ。この際「守随」を苗字にするよう命じられ、今日に至っている。


面白そうなので検索して調べてみたら、「株式会社守随本店」社長のブログがあった。
秤屋社長のひと言:守随家と徳川家との係わり合い


そして、ここにはさらに面白いことが書いてある。二代目信義はなんと武田信玄の孫なのだという。武田信玄と三条家の姫との間に「信雄」が生まれる(武田義信のことと思われ)。その「信雄」と側室の「守随家の姫君」との間に生まれたのが信義なのだそうだ。
秤屋社長のひと言:今川家と守随家との係わり合い


これは初耳。


※このページにも「武田信玄の孫・信義」と書いてある。
両替商
守随信義 とは - コトバンク


なお、近代デジタルライブラリーの『絵本真田三代記』には、ちょっと違った話が載ってた。
百三十六 武田彦太郎自殺の事並秤座守随由緒の事
これによると武田勝頼に彦太郎という男子がいて、武田氏滅亡後家康と面会し、家康が一国を与えようとしたのを固辞した。この彦太郎は後に病を得て自殺。その子の名も彦太郎といい、家康が33ヶ国の秤座の特権を与えたという話(だと思う)。