国家と個人の間にあるもの

⇒[書評]自由はどこまで可能か―リバタリアニズム入門(森村進): 極東ブログ


本を読まずに書評だけで論じるのもどうかと思うけれど、そこに書いてある

保守派(コンサバティブ)
個人的自由への介入を認めるが経済的自由は尊重する

なんてのを見ると大いに違和感を持ってしまう。何からの「介入を認める」のか主語が書いてないのだが、書いていないのは、それが書く必要もないほど当たり前のことだからなのだろうか?


どうも、この手のものを見ていつも気になるのは、国家と個人の関係しか眼中にないようにみえること。その中間にあるものを無視しているようにみえること。


保守が個人主義を嫌うのはなぜかといえば、個人という最小単位に分割されて宙に浮いた人間は、結局、国家と直接結びつくことになり、やがて全体主義に至るという懸念があるから。保守にとって、個人主義全体主義は正反対のものではない。


国家と個人の中間にあるものを考慮しないというのは、保守的視点を欠いていて、最初から(それを破壊することを目的としてきた)「革新」側の視点でのみで語られているもののように見えてしまう。