二つの「自由」

昨日に引き続き、『保守主義 ― 夢と現実』(ロバート・ニスベット 宮沢克・谷川昌幸訳 1990年 昭和堂)より。

バークによれば、先行のアメリカ革命はもっぱら自由を目指していた。この場合の自由とは、イギリス支配からの植民地の自由と、個々の市民の固有の権利に対し不当に自らの意志を強制するおそれのある政府からの人民の自由 ― 憲法上の自由 ― である。

これが保守の言う「自由」。一方、革新側の言う「自由」とは、

ルソーは、人は自由なものとして生まれたにもかかわらず、いたるところで鎖につながれている、と力強く宣言し、未来の革命家と改革者にこの鉄鎖の打破を訴えると同時に、それよりも精緻だが、それよりも強力な別の主張をも展開した。真の自由は、個人の自我と、もろもろの権利を含む全所有物を絶対的共同体へ全面的に譲渡することにあるという主張である。これこそ、ルソーからレーニンに至る本質的に集団主義的 ― あるいは共同体的 ― な真の自由についての解釈であった。

これを読んで違和感を持つ人もいるだろう。なぜならルソー的「自由」への批判は、左翼が右翼を批判するときに、しばしば主張しているものだから。このあたりウヨサヨのねじれているところ。


しかしながら、保守が「小さな政府」を主張するのは、まさにこのような理由からであり、それは政府(巨大な権力)からの自由を求めるが故のものなのであった。