網野善彦の「自由」

上を踏まえた上で、最近見た某ブログで、網野善彦を批判したものがあったのだが、要約すると、秀吉の刀狩などは、中世の無秩序を止めるためのものであって、それに服従することを「自由の放棄」だなどというのはけしからん、「左翼的イデオロギー」を持つ歴史家の勘違いだと主張しているようだ。


たしかに網野氏は自称「左翼」なんだろうけれど、しかし、ここで使われている「自由」とは、保守の使う「自由」と同義であろうと思うわけで、このあたり、いろいろとねじれていてややこしいなあと思うのであった。