「神武東征」(その12)

神武天皇といえば議論は「東征」についてのことが中心となっている。関心の的が神武東征伝説が史実もしくは史実を反映したものであるのかということなんだから、そうなってしまうのは当然だろう。


だが、神武伝説を「伝説」として検証する場合、「東征」の問題よりも、もっと重要な問題があるように俺には思われる。


それは神武の妻の記述についての問題。英雄伝説において姫とのエピソードは重要な位置を占めている。「スサノオクシナダヒメ」「オオクニヌシスセリビメ」「ニニギとコノハナサクヤビメ」「ヒコホホデミトヨタマビメ」、さらに「ヤマトタケルオトタチバナヒメ」等々。


ところが神武天皇の伝記には、その部分が簡単にしか記されていない。

成長されて、日向国吾田邑の吾平津媛を娶とって妃とされた。手研耳命を生まれた。

 庚申の年秋八月十六日、天皇は妃を立てようと思われた。改めて貴族の女子を探された。時にある人が奏して、「事代主神が三島溝〓耳神の女 ― 玉櫛姫と結婚されて、生まれた子を名づけて、媛蹈鞴五十鈴媛命といい、容色すぐれた人です」という。これを聞いて天皇は喜ばれた。
 九月二十四日、媛蹈鞴五十鈴媛命を召して正妃とされた。

 辛酉の年春一月一日、天皇橿原宮に即位になった。この年を天皇の元年とする。正妃を尊んで皇后とされた。皇子神八井命、神渟名耳尊を生まれた。

(『全現代語訳 日本書紀宇治谷孟 講談社

吾平津姫 - Wikipedia
ヒメタタライスズヒメ - Wikipedia


たったこれだけだ。しかし、元々はこんな簡単な伝説じゃなかったはずだ。


特にヒメタタライスズヒメは、初代天皇の正妃であり、彼女の子孫が歴代天皇となったのだから重要人物だ。俺は個人的には、見方によれば神武天皇よりも重要な「日本神話」における最重要人物ではないかとさえ思う。


それなのになぜ、こうもあっさりとしているのか謎だ。


推測するに、可能性としては、先に書いたように神武天皇は祖父のヒコホホデミと同一であり、すなわち「ヒコホホデミトヨタマビメ」の話が、神武(ヒコホホデミ)と姫とのエピソードであり、既に書かれているので省略されたのかもしれない。


トヨタマビメとヒコホホデミの子であるウガヤフキアエズは、叔母のタマヨリビメを妻とした。一方、ヒメタタライスズヒメと神武(ヒコホホデミ)の末子である綏靖天皇は、叔母のイスズヨリヒメを妻とした。
五十鈴依媛命 - Wikipedia


明らかに話がかぶっている。神武=ヒコホホデミだとすれば、綏靖=ウガヤフキアエズとなろう。だが、このあたり話が複雑に絡み合っていて、原型を復元して、さらにすっきりした形で再構成するのは(日本書紀編纂当時であっても)不可能なことだったんじゃなかろうか。


ただし、他にも何か理由があったのかもしれないとは思う。