疑似科学批判にもいろいろあって、それは別にいいんだけれど

池内了『疑似科学入門』を読む 2009-11-01 - 小田亮のブログ「とびとびの日記ときどき読書ノート」


俺はこの本読んでない。そもそも疑似科学の個別事例についてならともかく、疑似科学全般についてなら、古典であるマーティン ガードナーの『奇妙な論理』とか、ここでしばしば引用しているマイケル・W・フリードランダーの『きわどい科学』とかを読んどけば、それで十分なのである。それじゃ出版社が新刊が売れなくて困るとなんていう事情があるかもしれないが、こっちの知ったことではない。


この記事で注目したのは「占い」のところ。俺が前に書いた記事、
疑似科学批判であっても
ここで『人はなぜ騙されるのか』(安斎育郎、朝日新聞社、1996)という本の、「運」「不運」に関する記述に対する批判をした。


思うに、池内了氏と安齋育郎氏は、似たような立ち位置にいるんだろう。ちなみに安齋氏はJapan Skepticsの元会長で、池内氏は会員。明らかにおかしなところは別としても、それ以前にこのような「科学的でないもの」に対する姿勢は俺には全く共感できない。


しかし、それで正しいと思っているのなら、彼らの信念としてやればいいだろうとは思う。もちろん批判するけれど。懸念するのは、彼らと立ち位置が違うのに、「共通の敵」である疑似科学を批判している仲間だという意識で、批判しない、できない人達がいるんじゃないかということ。疑似科学批判にかかわらず有り勝ちなことで、そういうことが続くと全体が駄目になっていく。


でも、まあ、
「疑似科学批判」のレビューを書かない:Chromeplated Rat:So-net blog
などを見ると、ちゃんと疑似科学批判側の人も批判しているようで、よろしいんではないかとは思う。


(ただし、ニセ科学で有名な菊池誠先生は優柔不断つうかなんつうか…、自ブログでも「忙しくてまだ読んでない」って書いたっきりじゃなかったっけ)