「真正性の水準」と「諸条件の平等」

レヴィ=ストロース鎮魂のため数学野郎にお願い - 地下生活者の手遊び


つい最近『トクヴィル 平等と不平等の理論家』(宇野重規 講談社選書メチエ) を読んだ。トクヴィルは、「合衆国に滞在中、注意を惹かれた新奇な事物の中でも、諸条件の平等ほど私の目を驚かせたものはなかった」と言った。この「諸条件の平等」とは何かということを知りたかったのがきっかけ。


そこに「民主的人間」というキーワードがあった。

〈民主的人間〉は、身の周りの他者を自分の同類とみなす。〈民主的人間〉にとって、他者とは、自分と同じように、喜び、悲しみ、生き、そして死ぬ存在である。アダム・スミスは「共感」概念によって、新たな道徳原理を打ち立てようとしたが、トクヴィルに言わせれば、人が他者の感情や思考に共感するのも、他者を自分と同類とみなす想像力があってこその話である。他者の喜びや痛みに共感するには、そもそもの前提として、その他者が自分と同じように喜んだり、悲しんだりする存在であるという認識がなければならない。そして、そのような認識が当然のものとなったとき、はじめて「人類」という理念も生じる。「人類」とは、自分と、自分と同じように感じ考える同類の集合体として観念されるものにほかならないからである。
 逆にいえば、「アリストクラシー」の社会とは、

(中略)

逆に「デモクラシー」の社会においては、「人類」のイメージはきわめて身近なものとなる。周りの個々の隣人は知らなくても、自分と同類の総体である「人類」については、ありありと想像できるようになるのである。

「デモクラシー」の社会は「真正な社会」のように「〈顔〉のある関係」になくても、共同体の構成員が「自分と同じように感じ考える存在」と想像することができる社会だということですね。ところが、一方、この「デモクラシー」の社会では、

すでに指摘したように、不平等を原理とする「アリストクラシー」の社会において、人と人、集団と集団とを隔てるさまざまな格差は、ヒエラルキー秩序のなかに組み込まれ、そもそも不平等として認識されることがない。そのような格差はあまりに自然で自明なものと見なされるからである。これに対し、平等を原理とする「デモクラシー」の社会において、不平等はきわめて鋭敏に意識される。「不平等がある社会の一般法であるとき、もっとも著しい不平等も目につかない。すべてがほとんど平準化したときには、どんな小さな不平等も人を不快にする。平等がより増大するにつれ、平等への欲求もつねに、よりいっそう飽くなきものになるのは、このためである」。

トクヴィルは指摘しているという。

トクヴィル 平等と不平等の理論家 (講談社選書メチエ)

トクヴィル 平等と不平等の理論家 (講談社選書メチエ)



で、このブログの記事の中にある、

例えば母子家庭の生活保護をたたいている連中って、母子家庭でガキを何人もかかえた母親が、20数万で生活していくのがどういうことか、現実的にわかっているやつはほとんどいなさそうだし。マスコミを経由したことによるフリーライダー検知モジュールの暴走にゃんな。

という現象の動機はどこにあるのかと考えるに、それは「母親」が自分達の知らない「他人」だという感覚があるからではなくて、逆に自分達と「同じ人間」であり、自分達は苦労して生活しているのに楽している(という思い込み)から発生しているものであろうと俺は思うわけであります。つまり「知っている」からこそ不満が湧くということ。


もちろん、その「知っている」が本当は「間違い」であるから、正しい知識を認知させるという方法もあるけれど、世の中には知らなければならないことが無数にあるわけで、そうではなく、「知らない」ということを知るべきではないかと俺なんかは思ってしまうわけ。