リフレ派と「逆説の日本史」

リフレ派と呼ばれる方々の発言には、俺がかつて愛読していた「逆説の日本史」での井沢元彦氏が主張と、似ている点が多いよなあと前々から思っている。


井沢氏は現在の歴史学界を口を極めて批判している。当時の俺はそれを読んで納得してしまった。歴史学界というところは、そんな簡単な常識もわからないところなのかと。なんてひどいんだと。


もちろん今では、歴史学界に何の問題もないとは思わないが、いくらなんでもそこまでひどくはない。学者といえども人間であるからして、常識のある人間もいれば、ない人間もいるだろう。むしろ、歴史学界だけが特別に非常識な世界であるというのは、一体どんな超常現象が作用すればそうなるのだろうかという疑問が湧く。


その後、いろんな歴史本を読むにつれて、わかってきたのは、こういう既存の学説や体制を口を極めて批判するやり方は「電波本」の特徴だということ。それらの本にはステレオタイプな批判が満ち満ちている。逆に言えば、最初の数ページを読んでそういう批判が出てくれば、その手の種類の本(トンデモ本としても質が低い本)なんだと判断して、ほぼ間違いがないということ。


そしてマーチン・ガードナーの『奇妙な論理』にこんなことが書いてあることも知った。

(1)彼は自分を天才と考える。
(2)彼は自分のなかまたちを、例外なしに無学な愚か者とみなす。彼以外の人はすべてピント外れである。自分の敵をまぬけ、不正直、あるいはほかのいやしい動機をもっていると非難し、侮辱する。もしも敵が彼を無視するなら、それは彼の議論に反論できないからだと思う。もしも敵が同じような悪口で仕返しするなら、それは彼がならず者たちとたたかっているのだという妄想を強める。

まさにそう。これこそが「疑似科学者」の「偏執狂的傾向」なのだ。


ただし、判断に迷う時もある。例の「聖徳太子はいなかった」の人が書いた本は、まさにその特質を備えている。しかし、これは学者の書いた本であり、議論を呼び起こした。これを「電波本」と断定するのは難しい(とはいえ俺はその主張に賛同できないけど)。中にはそんなものもある。



一方、リフレ派の人が全部そうだというわけではないのだろうけれど、リフレ政策に批判的な経済学者や、あるいは日銀を、口を極めて罵る人がいて、かなり目立っている。その批判はただの批判ではなく、批判の矛先がまるで常識に欠ける駄目人間の集まりであるかのような批判であり、対等な立場での批判ではなく、決着が既についているかのような批判であり、井沢元彦歴史学界批判と瓜二つだと常々思っている(反リフレの方にもそういう人はいるけれど)。


そういう批判は勇ましくて耳目を集めるかもしれないけれど、それで集まってくる人達というのは、これまたある種の傾向を持った人達が多いだろうと思う。