足利義政は政治に興味を失っていたのか?

修復終え黒漆塗りも鮮やか 銀閣寺お披露目 - MSN産経ニュース

このニュースとは直接関係ないんだけれど、前々から疑問に思ってることについて。


俺は学校で、足利義政という人は政治に興味を失い、文化・芸術に没頭したと習った。これは今でもそう教えられているのだろう。


足利義政 とは - コトバンク
より、今谷明氏の解説。

政務の主導権は生母重子,乳母今参局らに握られ,康正1(1455)年に日野富子と結婚したのちは富子の兄勝光や,蔭涼軒(季瓊)真蘂,政所執事伊勢貞親らが幕政に容喙,義政は政務に意欲を失って社寺巡礼や別荘の造営に憂き身をやつす始末であった。

(本筋とは関係ないが「憂き身をやつす始末であった」みたいな人物評価を歴史学者が下すのは俺は好きではない)


足利義政 - Wikipedia

この足利将軍家家督継承問題に対し、義政はどちらにも将軍職を譲らず、文化的な趣味に興じるなど優柔不断な態度を続けた。

更に武衛騒動をきっかけに発生した文正の政変によって守護大名達の圧迫を受けた義政側近層は解体に追い込まれ、手足となる家臣を喪失した義政は完全に政治への意欲を失っていった。

当時、室町殿(義尚)に対し、東山殿(義政)と呼ばれ、政治の決定機関がふたつに分裂していたようである。そのためか、応仁の乱後に義政は隠居し、その後はさらに文化的な活動に拍車がかかった。

こういう見方は定説中の定説であり、異論は見たことがない。ただ、俺はド素人で、そのド素人の目から見ると疑問に思うことはある。


まず、こういう見方が出てきた根拠について。当時の史料にそう書かれているのか、それとも後世の学者がそうだと主張しているのかということが素人にはわからない。余程この時代の歴史に精通している人でなければ、知らないのではなかろうか。


もちろん、後世の学者の主張だからといって間違っているというわけじゃない(逆に同時代の史料に書いてあったとしても、他人の評価が当人が考えてることと一致しているとは限らない)。ただやはり根拠は知りたい。


そう思うのは、先入観があると、何でもかんでも都合の良いように解釈するということはよくあることだから。


つい最近まで、上の解説を書いている今谷明氏をはじめ、織田信長と朝廷が対立していたと主張した学者は多くいた。そういう目で見ると、信長が天皇に譲位を勧めたのも、天正9年京都御馬揃えも、信長と朝廷が対立したという根拠になった。ところが、その同じ出来事が見方を変えれば、信長が朝廷を尊重していたという根拠にもなる得るのだ。
織田信長 - Wikipedia


そう考えると、足利義政が文化に並々ならぬ興味を示していたことや、東山に「隠居」したことが、本当に政治から逃避したということだと解釈して良いのかとか、再検証する価値があるかもしれないと思ったりする。


ま、素人考えなんだけど……