「地獄への道は善意で舗装されている」の本当の意味は?

地獄への道はいつも善意で舗装されている(とは限らない)。 - Something Orange


コメント欄にあるように「地獄への道は善意で舗装されている」は「『善意で舗装されている』ならば『地獄への道』」とは限らないように思われる。思われるんだけれど、読んでいるうちに俺の頭は大混乱。


はてなキーワードによると
地獄への道は善意で舗装されているとは - はてなキーワード

良かれと思って行ったことが悲劇的な結果を招いてしまうこと。

または、悲惨な出来事が皮肉にも善意の行いが発端となっていることを言う。

という意味だそうだ。というか俺もそのように考えていた。だが、しかし大いなる疑問が…


それは「地獄へ行く罪人は誰なのだ?」という疑問。


この場合の「地獄」が西洋における「地獄」であることは間違いなかろう。すなわちキリスト教の地獄」だ。

キリスト教で、神の教えに背いた者、罪を犯して悔い改めない魂が陥って永遠の苦を受け、救われないという世界。⇔天国。

じごく【地獄】の意味 - 国語辞書 - goo辞書


要するに「地獄は罪人の魂が死後行く世界」ってことでしょう。


さて、それを踏まえた上で箴言の意味を考えてみると、

良かれと思って行ったことが悲劇的な結果を招いてしまうこと。

あるいは

悲惨な出来事が皮肉にも善意の行いが発端となっていること

であるならば、「地獄へ行くのは善意を施された人」であって「善意を施した人ではない」ということになりはしないか。とするならば「善意を施された人に罪がある」ということになりはしないか。逆に言えば「独りよがりの善意でも天国に行けるかもしれない」ってことになりはしないか。


それでいいのか?ただし、解釈しようと思えば「善意を安易に受け入れることに罪がある」と解釈できないこともない。これはこれで箴言っぽいけれど、どうだろう?


あと「地獄」と言っても本当の「地獄」のことではなく「生き地獄」のことであるとの解釈も可能のように思われる。というか多くの人はこれをイメージしているっぽく思う。

宗教(主に仏教)上の地獄から派生して、非常に苦難な状況・境地・場所を地獄と例える。たとえば、「生き地獄」、「地獄の一丁目」など。

地獄 - Wikipedia
しかし、可能性としては低いようにも感じられる。あくまでこれは「本物の地獄」の意味であって、それを現実世界に比喩として使う場合にも「罪人が地獄に堕ちる」という要素は抜けていないのではなかろうかとも思う。


そして、何よりも、多くの人が、「良かれと思って悲劇的な結果を招いた張本人こそ地獄へ行くべきだ」と思っていることだろうけれど、そう解釈するのは、困難だと思われると言うこと。すなわち、現実世界でこれに該当することをやっている人を批判するのに、「地獄への道は善意で舗装されているのだ」と言って批判しても「善意を施すことの何が悪いのだ」と言い返されたら二の句が告げられないかもしれないということ。逆に、本来は善意を施される側に「善意を安易に信用してはいけない」という警句としてなら通用しそうだということ(あくまで先の解釈が正しいとしたらだけれど)。


だが、これらは日本で一般的に受け入れられている解釈とは著しく異なるように思われる。主に「行為の結果を熟慮しない素朴な善意の行動」を批判するための言葉だろうから。


じゃあ、キリスト教社会ではどう受け取られているのかといえば、俺の能力ではそこまで調べきれていない。元々は善意を受ける側に対する警句だったけれど、今では善意を施す側にも使われているなんて可能性もあるだろうし。


まずは、有名なマルクスの『資本論』ではどういう文脈で使われたのかを知りたいと思っているのだが、検索してもマルクスが使ったという「豆知識」なら一杯あるけれど、肝心の知りたいことが見つからない。情報求む。


※ところで、

「罪人の歩む道は平坦な石畳であるが、その行き着く先は陰府(よみ)の淵である」(旧約聖書続編、シラ、二一-一〇)に由来し、のちにイギリス、ドイツの諺となった。

ともある。とするなら「平坦な石畳」と「舗装」は同じ意味であり、それが「善意によるものだ」ということになるだろう。問題はこの「善意」とはどんな「善意」なのかということなのだけれど、一般的に考えられているような「行為の結果を熟慮しない素朴な善意の行動」というようなややこしい意味ではなくて、そのまんま「善意」と解釈すれば良いようにも思える。なぜなら、ここで言及されているのは「罪人」のことであって「善意を施した人」について言及しようとしているようには全く見えないからだ。「善意の結果としての地獄行き」なんて意味はかけらも無さそうである。


すると「地獄への道は善意で舗装されている」にもそのような意味は全く無いという可能性だってありそうに思えてくる(あるいは元々は無かったが後で意味が変化したという可能性も)。たとえば「罪人とは悪事を行う人間のことだけではなくて、周囲の人々のおかげで平々凡々に暮らしているだけの人も罪人足りえる。神に奉仕するために進んで苦難を引き受けよ」みたいな解釈とかね。で、それを応用して「現体制に甘んじている者はそれだけで悪をなしているのである。革命的発展のために行動せよ!」みたいなことをマルクス・レーニン主義者なら言いそうじゃん。


全く違う話になってきた。しかも、これはこれで有り得そうな話にも思えてしまうから困る。益々わからなくなってきたな。