非言論の不自由

池田信夫 blog : 言論の自由を圧殺する「自由報道協会」 - ライブドアブログ


この手の行為を見て「言論の自由を圧殺する」ものだというのは、原発肯定・否定に関わらず多くの人が抱く感情だろう。俺もそう感じる。


この手のことがしばしば起きるのはなぜなのか?


一つの考えとしては「彼は(自己の考える)正義のためには言論を圧殺しても止むを得ないと思っている」というものだろう。


しかし、それよりも「彼には言論を圧殺しているという自覚がない」という可能性の方が高いのではないかと思う。


すなわち、彼が圧殺しようとしているのは彼の中では「言論ではないもの(非言論)」なのであるという可能性。


ここでいう「非言論」とは、「最低限の知能を持つ者が自由な意思によって考察した結論としてはありえない発言」という意味であり、そのような発言がは「無知に基づく妄想・精神を異常をきたした者の意味不明な発言・嘘であることを知っているにもかかわらず邪な動機により発せられた言葉」に違いないということだ。


ちなみに大多数の人が北朝鮮言論の自由のない国だと考えているだろうけれど、北朝鮮の自己認識としては言論の自由はあるのであり、それは憲法にも明示してあるのだ。彼らは無知な人は教育施設、精神に障害のある者は病院に収容させてあげているだけなのだ。もちろん罰ではなくて福祉である(と考えているのだろう)。そして邪な動機により嘘をつく者は国家転覆を意図したとか人心紊乱などの反社会的行為によって罰せられるのであって、言論そのものを罰したのではないのだ(と考えているのだろう)。


であるなら、「非言論」をいくら圧殺しようが、「言論の自由」は守られるのであり、それどころか自らを言論の自由の守護者であるとナチュラルに主張することも可能になるのだ。


そして、これが恐ろしいのは程度の差はあれ、おそらくほとんどの人(勿論俺も含む)が余程の細心の注意をしていなければ、無自覚にこれと同じことをしてしまうかもしれないということだ。


池田信夫 blogの記事を見てけしからんと思った人(俺も含む)が、そう思いつつ自分もそんなことをする(あるいは既にしている)かもしれないのだ。


※なお、数日前に書いた「間違った科学、つまり非科学」という記事における森博嗣氏の「非科学」の定義も「非言論」と同じような匂いを感じ取ったので書いたものである。