「地獄への道」アゲイン

「地獄への道は善意で舗装されている」の本当の意味は?
「地獄への道は善意で舗装されている」の本当の意味は?(その2、3、4)


「見えない道場本舗」さんからトラックバックを頂いたので再考してみる。


結論としてはいろんな意味があるってことになると思う。たけど、いろんな意味があるといったって、何でもありだとは思わない。やはり誰々がこういう意味で使っているとか、どこの国ではこういう意味で流通しているとか、そういう根拠が必要だと思う。もちろん誰かが新解釈をして、それが今後定着するってこともあるだろうけれど。


ところで、マルクスの「地獄への道」。

俗流経済学に明るい資本家はおそらく云うであろう、――自分は、自分の貨幣をより多くの貨幣たらしめる意図をもって投下したのだと。

だが、地獄への道は善き意図をもって舗装されている。彼は同じように、 生産することなく金儲けをする意図をもちえたのである。

「地獄への道」の本当の意味は?という問題とは別に、マルクスの言う「地獄への道」の意味は?というのがまた様々な解釈がある模様。


はてなキーワードには、

※これは文脈上は、通常(A)と解釈するのが一般的だろうが(B)、つまり「資本家が善き意図を”途中で放棄”⇒道を善意で舗装し/生産しない金儲けに堕落した⇒地獄の道へ向かった」とも解釈できなくは無い?

みたいなことが書かれているけれど、これは無理があると思う。じゃあ、どういう意味なんだって言われたら正直わからない。マルクスの思想に詳しいわけでもないし。


でも、やっぱり気になるのは「善き意図」(善意)。「自分の貨幣をより多くの貨幣たらしめる意図」のことを普通は善意とは言わない。「善き意図」と訳せば、利殖は良いことだみたいな解釈ができなくもないけれど、やっぱり違うんじゃないかと思う。大体、日本でも欧州でも、左翼でも右翼でも利殖が善意であるなんて考えは一般的じゃないと思う。「利己心」だって考えられていると思う。リバタリアニズム的考えによれば個々人が功利的に行動することが結果的に良い社会になるみたいに考えるかもしれないけれど、それでもその利己心が善意だとは考えていないと思う(多分)。


だから前にも書いたけれど、ここでいう善意(善き意図)というのは、法律用語でいうところの「善意」、すなわち「ある事実について知らないという意味」ではなかろうかと思う。


つまり資本家は「自分の貨幣をより多くの貨幣たらしめる意図」によって行動しているのだが、それは同時に「生産することなく金儲けをする意図」を(本人が自覚していなくても)持っている(それはマルクスによれば悪である)のだという意味ではなかろうかと思うのだ。「未必の故意」と似ている感じ。ただし意味は異なる。「未必の故意」の場合は「実現されるかもしれない」という認識が必要だけれど、こちらは認識の有無は関係ないだろう。


なんてことを思うんだけれど、全くの的外れかもしれない。


この手のことは単語の意味などが時代や言語や使用者によって変わってくるという、割と良くある、厄介な問題が関わってくるだろうと思う。そもそも元ネタだとされている『旧約聖書』では地獄ではなくて「陰府の淵」だったわけだし。「陰府」は死者の行く場所だから、善人でも悪人でも行くところ。で、ここでこれまた悩むのは、

「罪人の歩む道は平坦な石畳であるが、その行き着く先は陰府(よみ)の淵である」

と「罪人」という言葉が使われていること。死ねば誰でも行く場所なのに、なぜことさら「罪人」が出てくるのか『旧約聖書』にも詳しくない俺は頭が混乱する。たとえば「罪人」というのは人類全般のことではないかとか、ここでいう陰府は、実は誰もが行くところではないのではないかとか、いろいろ可能性を考えるけれど、いくら考えたってそれについて調べてみなければ答は出てこないのである。


まったくこのテーマは奥が深すぎる。