後花園天皇の宣命

史料操作の問題 - 我が九条−麗しの国日本


俺はこの問題に強い関心を持っていて、個人的にはWallerstein氏の主張に説得力があると思っている。しかし俺はこの問題に関して超ド級の素人である。


一方、安東氏が永享4(1432)年に南部氏に侵攻され、その後和睦して戻ってきて、嘉吉3(1443)年にまた南部氏の侵攻によって十三湊を撤退したというのが研究者の間の有力な説というからには、これに対する反論があってもよさそうなものだが、見たところ反論コメントは無いようだ。Wallerstein氏の日記のページビューは俺の日記のざっと2倍あるけれど研究者の目に止まってない、もしくは相手にする気がないということだろうか?もちろん人気ブログと比較したら閲覧者は少ないのでガチで知らないということは有り得るけれど。


で、俺はWallerstein氏の主張に説得力があると思っているけれど、詳しいわけではないので、問題点を探してあえて反論してみようかという無謀なことを考えたのだが、いかんせん肝心の史料が簡単に入手できるものではなさそうだ。


ただ、多少気になったことがある。それが後花園天皇宣命
「函館市史」通説編1 3編1章2節-2〜3

       宣命
安倍一族之処領不レ可レ侵、東日流(つがる)外三郡ハ皇領也。依リテ皇領ノ守護職ヲ任ズル二安倍一族ノ当主ニ一者也。茲ニ犯ス二皇土ヲ一者ハ朝敵ノ輩也。安倍一族ハ代リ二天朝二一是ヲ討伐永代ニ任ズル者也。
     嘉吉三年正月
                                      押桐紋印
                                           花押
                                      菊華印

嘉吉3年に後花園天皇が東日流外三郡は皇領であり、それを犯す者は朝敵だとする宣命を出したというのだ。これが『新羅之記録』にある「此節義政出張して嘉吉二年秋十三之湊を攻め破りて津軽を乗取り」に対応したものだと考えることは十分説得力があるように思えてしまう。


さらに、この宣命が何の史料によるものかということで、『函館市史』には、

 右の宣命書と日月の皇旗を賜って、康季は一刻をも惜しんで帰郷したが、南部勢は十三湊をことごとく攻略し、すでに唐川の城も焼失して戦雲はいよいよ暗く、わずかに小泊の柴崎城(柴館)の攻防を最後に、嘉吉3年安倍一族は渡嶋や阿北(あきた)に退いて、故地十三浦を涙をふるって離れた(補陀寺蔵書『小浜往来記』『羽賀寺讃否書』)。なお羽賀寺の落慶は文安4(1447)年である。

とあり、おそらくは「補陀寺蔵書『小浜往来記』『羽賀寺讃否書』」なのだろう。


良くわからないのは、「嘉吉3年安倍一族は渡嶋や阿北(あきた)に退いて、故地十三浦を涙をふるって離れた」もこの史料によるものであるかのように読めなくもなく、すると『新羅之記録』以外にも嘉吉3年説の根拠となる史料があるのかという話で、そこが確認できないので非常に悩ましい。


※ただ、当然のことながら後花園天皇宣命については永享4年に対応したものだと考えることも可能。しかし嘉吉3年に出されたというタイミングは絶妙なものがある。なお想像を逞しくすれば、まさに嘉吉3年に宣命が出されたということが『新羅之記録』の嘉吉三年撤退説の根拠になっている可能性もあるのではなかろうかとも思ったりする。


(追記18:45)つい今しがたあることに気付いて、俺はとんでもないことをやらかしてしまったんじゃないかと不安になっている。原田実氏の
湊家は「秋田孝季」の関心外
という記事に「秋田の補陀寺に過去帳として納められたもの」なる系図の話がある。『函館市史』の「補陀寺蔵書『小浜往来記』『羽賀寺讃否書』」というもっともらしい史料は、もしかしてあの有名な偽書なのではないかという不安がしてきて胸がドキドキ。


(追記)そういえば、つい先日「ペルソナ4」で遮光器土偶のことを「アラハバキ」と呼んでた。今もアレの影響力は強いんだなと思ったばかりだった。