神話の修正

先日書いた「安藤氏十三湊還住説の根拠」という記事は、今書いている「天孫降臨神話の真実」と決して無関係ではない。


「安藤氏十三湊還住説」は「神話」がいかにして変化していくかという問題のヒントになる。


「安藤氏十三湊還住説」が誕生した経緯は、従来『新羅之記録』にある嘉吉2年(1442)撤退説が通説となっていたところに、『満済准后日記』の永享4年(1432)撤退の記事が着目されたということらしい。


普通に考えれば、一方が正しくて一方が間違っているということになる。『満済准后日記』は一級史料であり嘘を書いているとは思えない。したがって、これまた普通に考えれば『新羅之記録』が間違っていると考えられる。


ところがここに安藤氏は1432年に一度撤退したが幕府の調停により戻ってきて1442年に再び南部氏の攻撃により撤退したとする「安藤氏十三湊還住説」が登場した。これならどちらの史料も正しいということになる。そしてそれを裏付ける「考古学的発見」もあって近年はこれが有力説となっているということらしい。


しかし、これは実に根拠の乏しいものであり、安藤氏と南部氏が和睦したとか、安藤氏が十三湊に帰ってきたといった文書史料は存在せず、「考古学的発見」の方もそれが安藤氏が帰ってきた証拠となるものではない。単に安藤氏が撤退した1432年以降も十三湊に人が住んでいたというだけのことだ。しかも1442年にあったはずの戦乱の跡は見つかっていないらしい。


もちろん、だからといって安藤氏が還住していないという証拠にもならない。歴史は何でもかんでも史料が残っているわけではない。新史料が発見されてほぼ確実だと確かめられることもあるが、永久にそうならない可能性だってある。歴史学に限らず科学で「正しい」という場合、それは「暫定的に正しい」ということだ。


けれどもそれは何でもありということではない。現在わかる範囲で最も説得力を持つ説が「正しい」ということだ。「安藤氏十三湊還住説」にそういう「正しさ」があるかというと、俺にはどうしてもそうは見えない。最も説得力があるのは『満済准后日記』の1432年説が正しくて、『新羅之記録』が間違っているということだ。しかし、それが還住説が「有力な説」となっているからには、多くの歴史学者がそれを「説得力がある」と認識しているということだろう(俺には全くそう認識できないけれど)。



さて、ここからが本題。


「神話・伝説」というものは常に変化していくものだ。なぜ変化するのかというと、柳田國男が、文明の発達によって単純素朴な神話を信じることができなくなってくると、そこにもっともらしい理由がくっついて変化するのだというようなことを書いていたように記憶している(うろ覚え)。これは互いに矛盾する神話・伝説が存在したときにも起こることだろう。


「もっともらしい理由」といっても、俺が考えるにそれは「創作」ということではない。いや、客観的に見れば「創作」かもしれないけれど「創作」した当人にそのつもりはないと思うのだ。


「神話・伝説にどうしても納得いかないところがある。それはおそらく伝えられる途中で誤って伝えられたか、あるいは情報が欠けているためにそうみえてしまうのだろう」というような考えにより、誤りを「修正」したり、欠けている情報を「補填」したりして、「正しい神話を復元しよう」とすることにより、結果的に新しい神話が出来上がってしまうのだと思う。


つまり、それは現在の歴史家がやっていることと同じなのだ。


ところが、それを神話・歴史学者は政治的意図による改竄と決め付ける傾向がある。
※ そもそもその「改竄」(たとえば二つの神話をくっつけた等)ということが本当にあったのかすら怪しいケースも多々あるけれど。


そういう歴史学者がやっていることは何なのだと言いたくなる。俺から見れば「安藤氏十三湊還住説」だって、それでいけば何らかの政治的意図による改竄だということになる。だが、そんなことを言うつもりはない。普通にそれはおかしいと言うだけだ。とはいえ、これをそこそこ説得力のある陰謀論で説明することは不可能ではない。聖人君子など極めて稀な存在であり、叩けば埃が出てくるであろうから、陰謀論が必ずしも間違っているというわけではなかろう。


現在の定説が将来覆される可能性は決して少なくない。そのとき将来の歴史家もまた、現在の歴史家がしているように、これは意図的な改竄だと決め付けるかもしれない。そうなったとしてもそれは自業自得というものだ。