これはなかなか興味深い論文だ。
⇒忘却からの帰還: Timothy Melleyの著書 "The Empire of Conspiracy"
ただし、俺は地球温暖化でっちあげ論とか宇宙人隠蔽論とかにはとりあえず興味はない。それらを信じる人が決して少なくない数存在するのだとしても、専門家でそんなことを主張している人は仮にいるとしても極めて少数であろう。
ここで問題にしたいのは日本の歴史学者達だ。日本の歴史研究をみればウンザリするほど「陰謀論」で満ち溢れている(なお「日本の」というのは俺が外国のことを良く知らないからであり、外国でも日本と同様なのかわからない)。
ベタベタな陰謀論であるにもかかわらず、それが大きな問題として論じられることはほとんど無い。これが不思議でしょうがない。
歴史学は特別だということなんだろうか?
無論、歴史学とて何でもかんでも陰謀論が許容されているわけではない。ネットで検索すると日本史に関わる陰謀論で批判されているものも多数ある。
ただし、それらの陰謀論は在野の研究者が唱えているものが殆どであり、学者の唱えているものは少ない。
同じ陰謀論なのになぜ扱いが違うのか?
在野の陰謀論は史料などで否定可能なものがあるということなのかもしれない。とすればこれは「陰謀論だから駄目」なのではなくて「お粗末な陰謀論だから駄目」なのだということなのかもしれない。
※ なお「日本史 陰謀論」で検索すると目立つのは「孝明天皇暗殺説」だ。これは在野だけではなく、かつては学界でも論じられていたことだ。孝明天皇が崩御したタイミングがタイミングだけに暗殺を疑われるのは自然であり、陰謀論の中では比較的まともな部類に属する。今では史料の詳細な検証により学界ではほぼ否定されているけれど、在野ではまだ信じている人もいる。問題はこれより遥かに粗雑な陰謀論が学界で普通に通用しているということだ。
さて、上記の論文の興味深い指摘は
人々は、個々の陰謀論固有の理由で陰謀論を信じるというより、陰謀論的思考を支持する高次の信条によって陰謀論を信じていることである。そのような高次の信条の、よく知られた例は、重大な権威不信である。研究者たちは、さらに、陰謀論主義が個々の陰謀論についてに信条ではなく、我々が世界を見るイデオロギーのレンズだと示唆した。
陰謀論は一般に、権力ある個人や組織の秘密同盟が描く邪悪な計画の一部として、重要な社会現象を説明する試みであると、定義される。偉大な哲学者Karl Popperは、陰謀論の詭弁は、あるゆる現象を意図的かつ計画的なものと描くことにあり、それはランダムな自然と、多くの政治的及び社会的行動の意図せざる帰結を過小評価するものだと論じた。
という部分である。
これはまさに日本の歴史学界に蔓延する陰謀論にぴったり当てはまる。
朝廷や幕府といった「権威・権力」に関わる人間が書いたものは「都合良く改竄されているに決まっている」という決め付けはまさに陰謀論者のお決まりのパターンである。
なお「権力者に都合が良い」というのも実のところ陰謀論者の視点による決めつけであって、昨日書いた「大化の改新」について言えば「中大兄皇子を英雄とするために創作した」というのが通常の陰謀論であろうが、山尾幸久氏は逆に「中大兄皇子を貶めるために創作した」という話になっている。
両者は完全に矛盾するが「権力者に都合良く改竄された」という点では一致する。
⇒はてなブックマーク - 645年→646年に変わった大化の改新に「そもそもなかった」説 (NEWS ポストセブン) - Yahoo!ニュース
はてなブックマークでは大半が山尾説を肯定的に受け取っているように見受けられるが、理由の部分を「中大兄皇子を英雄とするために創作した」に入れ替えても反応は変わらないだろうとほぼ確信している。「権力者は歴史を改竄する」という主張が重要なのであって中身なんてどうでもいいのだ。