安藤氏十三湊還住説の根拠

天孫降臨神話の真実」は今日は休み。とても気になることがあったので別の話。


家永遵嗣氏の安藤氏論 - 我が九条−麗しの国日本

つまるところ『新羅之記録』と『満済准后日記』という、性格の全く異なる史料を何の史料操作も行うことなく素朴に結合したところに安藤氏十三湊還住説が生じるのである。

俺は安藤氏について全く無知で十三湊について洪水伝説との関係で少し興味があるくらいだということを前置きして説明すると、『満済准后日記』には永享4年(1432)に南部氏に攻められ撤退したといあり、一方『新羅之記録』には安藤氏が嘉吉2年(1442)に南部氏に攻められて十三湊を撤退したという記事がある。二つの説があるのだが、最近では1432年の敗戦後に幕府の仲裁によって和睦して十三湊に戻ったが再び攻撃されて撤退したという説が有力になっているそうだ。


で、問題は和睦したとする根拠は何か?ということなのだが、
「十三湊」の検索結果 - 我が九条−麗しの国日本
で見てみると、『満済准后日記』の

南部方ヘ下国和睦事、以御内書可被仰出事、若不承引者、御内書等不可有其曲歟事、遠国事自昔何様御成敗毎度事間、不限当御代事歟。仍御内書可被成遣条、更不可有苦云々。以上畠山意見二カ条。山名申事、南部方へ御内書事ハ畠山同前也。

満済准后日記』永享四年十一月十五日

という記事であるらしい。Wallerstein氏は榎森進氏の解釈を批判しているが、俺も全くそれに同意する。


ただ、榎森氏の解釈にしてみたところで、御内書を発給したらしいということがわかるだけということに変わりはなく、それで和睦したとか安藤氏が十三湊に帰ってきたとかがわかるわけではないと思われる。


で、ちょっと検索して調べてみたのだが、そこに驚くべきことが書いてあった。
誰も知らない中里①最初のムラ

安藤氏(下国)が、拠点十三湊を南部氏に攻められ、北海道に追われた経緯については、『満済准后日記』ならびに『新羅之記録』に記録されている。

前者は、足利将軍の信任が厚く、後世「黒衣の宰相」と称された、京都醍醐寺の座主満済が記したものである。同日記は「(永享四年(一四三二))奥ノ下国与南部弓矢事ニ付テ、下国弓矢ニ取負、エソカ島ヘ没落云々、仍和睦事連々申間、先度被仰遣候処、南部不承引申也」と延べ、南部氏との戦で安藤氏が負けて蝦夷島へ逃れたものの、幕府の調停によって南部氏は不承不承和睦したとする。

満済准后日記』の記事の全文は以下の通り。

奥ノ下国与南部弓矢事ニ付テ、下国弓矢取負。エソカ島ヘ没落云々。和睦事連々申間、先度被仰遣候処、南部不承引申也。重可被仰遣条可為何様哉、各意見可申入旨畠山、山名、赤松ニ可相尋処、畠山重可申入云々。山名、赤松ハ重可被仰遣条尤宜存云々。

満済准后日記』永享四年十月二十一日条

驚くべきことというのは、「南部不承引申也」を「幕府の調停によって南部氏は不承不承和睦した」と解釈していることだ。普通に読めば「南部は承引しないと返答した」になると思うのだが、どうも「不承ながら引く」と解釈しているように思われる。


そんな解釈ありえないと思うのだが、何とこの記事はURLで確認すると「青森県中泊町博物館ホームページ」にある記事なのだ。書いた人がド素人というわけではあるまい。


むしろド素人なのは俺であり、俺は権威に弱いから(本当かよ)、自分の方が間違っているんじゃないかと不安になったりもするのであった。


でも、やっぱりさすがにこれは無いんじゃないか…