ザビエルは何に困ったのか

何度でも繰り返すが、Togetterの批判は全くおかしな主張である。


それを踏まえた上で、るいネット記事の問題点を指摘しておく。


まず、

ザビエルは困ってしまいまして

について(もっともここは別のブログからの引用部分だが)。


ザビエルが困ったといっても、それはザビエルが気付いていなかったキリスト教の矛盾を指摘され困ったということではない。そんなことはザビエルにとっては解決済みの問題である。ザビエルが困ったのは、当初の予想ではもっと容易に日本にキリスト教を広げることができると考えていたのに反して一筋縄ではいかないと気付いたからである。ザビエルはイスラム教には警戒感を抱いていたが、土着信仰についてはさほど布教の障害だとは考えていなかったと考えられる。なぜなら他の地域では実際そうだったからである。ところが日本においてはそうではなかったことを知ることになったのだ。


さて、このことは次の

「日本人は文化水準が高く、よほど立派な宣教師でないと、日本の布教は苦労するであろう」

に関係する。実のところこれは話が逆である。ザビエルは当初、日本人は文化水準が高いから日本での布教は容易だろうと考えていたのである。ところが意外にも土着信仰の力が強かったのである。もちろん、この場合の「文化水準」なるものは、ザビエルからみたキリスト教基準の文化水準のことである。なおザビエルがもっとも問題視したのは男色の習慣であった。もう一つは仏教の抵抗が強かったことだ。ザビエルは仏教の力を過小評価していた。日本に来てそれが誤りであることを思い知ったのである。もちろん日本に仏教が浸透しているからといって、それをザビエルが「文化水準が高い」などと考えるはずもない。ただしそれを日本側から見れば「文化水準が高い」と言うことは可能である。「よほど立派な宣教師でないと、日本の布教は苦労するであろう」というのは、原文を見れば僧侶との討論に勝つためであり、すなわち僧侶の学識が高いからと解釈することも可能だが、ザビエルから見れば学識が高いのではなくて邪悪だからということになるわけであり、学術論文にこんなことを書いたら失格である。しかし、そこまで目くじら立てることかといえば、こんなに大騒ぎになったからこんなことろまでつっ込まれるのであり、普段だったらスルーされるところであろう。