「正史」(その6)

たかが「正史」されど「正史」。まだまだ続く。


韓国東亜日報の今年1月26日付コラムが興味深い。
⇒[オピニオン]大韓民国の正史だなんて

◆前代の歴史は、後代の全盛期に書くという盛世修史という言葉もある。誰もが認める清の歴史が無いというのは、清の滅亡後の中国は、確固たる全盛期を迎えていないからだ。中華民国初の大総統になった袁世凱は1928年、清史稿を編纂したが、国民党政権の蔣介石はそれを認めなかった。台湾に追い出された蔣介石は1959年、清史稿を見直し、新たな清史を出したが、中国本土の共産党政権はこれを認めず、1965年、周恩來首相の主導で、清史編集委員会を立ち上げた。しかし、これも同様に、文化革命で中止となり、02年になってようやく清史を編纂する清史工程が始まった。東北工程も同年から始まったが、清史工程の一部としての辺境地域の歴史整理と関係があるのではないか推測できる。清史工程の結果である清史は、当初の計画通りなら、昨年末までに出るはずだったが、まだそのニュースはない。

「盛世修史」という言葉をはじめて知った。「清史」についてもほとんど知らなかった。

◆わが国も、初の正史である三国史記は、高麗中期の金富軾(キム・ブシク)が記し、高麗史は、朝鮮・文宗(ムンジョン)時代になってようやく完成された。その後、日本帝国によって朝鮮が植民地化され、朝鮮史をまとめる余裕を持つことができないまま、大韓民国が建国された。大韓民国時代は、国史編纂委員(国編委)が1973年にはじめて、03年に朝鮮史までの韓国史全体を52巻で整理した。これに先立って1969年は、韓国独立運動史を5巻でまとめた。ところが最近、国史編纂委が、大韓民国の歴史を整理するという報道が出た。国編委が、大韓民国史(仮題=全10巻)を書くなら、それこそ一つの正史になるだろう。しかし、大韓民国の正史を、大韓民国時代に記すというのは、東アジアの伝統史観から見れば、考えられないことだ。


先の木村幹氏のツイートに

Kan Kimura ‏@kankimura

その3。変わって朝鮮史関係。かの高宗実録・純宗実録は日本統治期に編集されたこともあり、韓国内では「正式な実録」と看做されない事が多い。が、ならばどうして現在の韓国政府は自らと大韓帝国の正統性の連続性を証明する為にも、自ら新しい実録を編纂しないのだろうか。

https://twitter.com/kankimura/status/345896911393402880
とあり、『高宗実録』と『純宗実録』は日本統治期に編纂されたものであり認められない。実録が完成していないのだから『朝鮮史』は作成することができない。というように理解していたのだが、既に「03年に朝鮮史までの韓国史全体を52巻で整理した」とある。もしかしたら「整理した」というのがミソなのかもしらないが、よくわからない。


大韓民国史』を作る(だが今年白紙になった)ということは既に書いたけれど、『朝鮮史』を飛ばして作るということではなくて、既に完成したからそれに続けて作るということであると思われる。しかし「大韓民国の正史を、大韓民国時代に記す」というのは韓国内でも抵抗があるようだ。白紙になった理由は「学界では韓国の現代史研究をめぐる視点に相違が依然として存在」しているからということらしいが、このような抵抗も少なからずあったのであろう。


ところで気になるのは「わが国も、初の正史である三国史記は」の部分だ。日本語訳では「正史」となっているが、韓国語でも「正史」なのだろうか?ハングルだと「정사가」。中国の「正史」の部分も同じなのでおそらくそうなのだろう。 ちなみにYahoo!翻訳だと「情事が」と訳される。


なぜそれが気になるかというと、既に書いたように朝鮮は冊封国だから。朝鮮の王は「国王」であって「皇帝」ではない。その王朝の歴史書は「正史」なのだろうかという疑問がある。


もちろん俺はド素人なので全く的外れのことを言っているのかもしれない。そして仮に俺の疑問が的を外れていなかったとしても、それは厳密に考えればという意味であって、厳密でなければならないということもない。ただここでも日本の「正史」と同じく、それは昔から「正史」と呼ばれていたのだろうかという疑問はある。また『日本書紀』などと同様に『三国史記』や『高麗史』といった書名が『漢書』『隋書』といった中国の「正史」のように「書」ではないところが気になる。


(追記6/26)

『高麗史』の最大の特徴は、歴代の高麗王の記述が天子を意味する「本紀」ではなく、諸侯の歴史をさす「世家」となっていることである。これは中国の天子の歴史だけが「本紀」といわれるべきであり、高麗王は中華皇帝の諸侯である、という趣旨からである。

正史 - Wikipedia