自己責任論

また「自己責任論」が盛り上がっているようなので、俺の考える自己責任論を書いてみる。


たとえば俺が何かの用事で道路を渡ろうとして、信号機のある横断歩道を青信号であることを確認し、かつ車が止まったことを確認してから渡ったところ、突然止まっていた車が走り出して俺にぶつかり、俺が怪我をしたとする。


これは自己責任か?Yes、自己責任


なぜなら、いかに信号が青で車が止まっていたとしても、そうなる可能性はゼロではないのであり、俺は道路を渡らないという選択もできたからである。道路を渡るという選択をした結果俺は怪我をした。全くもって自己責任だ。


ただし、それは俺が怪我をしたことによって完結しているのであり、俺が「俺が怪我したのは自己責任だ」と考えた場合に通用することであって、それを赤の他人から「お前が道路を渡ったのが悪い、自己責任だ」と批判されるいわれは無い。


俺が怪我したことで完結しているのであれば、他人に言われる筋合いはないが、他人の責任を追及した場合にはその限りではない。当然のことだが、俺は俺にぶつかった車の運転手に医療費等を請求することになるだろう。すなわち他人の責任を追及することになるわけだ。このとき、その車の運転手が「お前にも責任がある」と言い出す可能性はあるし、それは当然の権利である。もちろんこのケースの場合は運転手に全面的に非があると思われるから、権利はあっても「無茶苦茶なことを言う人だ」とか「素直に非を認めろよ」とは思うが。


さて、俺が運転手の責任を追及するのは当然の行為とみなされるであろう。しかし、これが「青信号でも車が発進できるようになっているのが悪い」として自動車メーカーを訴えるとか、「青信号でも車を発信させるような運転手に免許証を交付したのが悪い」として行政を訴えるとかした場合はどうだろう。こういう訴訟が受理されるのか俺は知らないけれど論理的には可能であろう。またブログなどで自動車メーカーや行政が悪いと批判することは可能だ。あるいは「車を廃止しろ」と主張することも可能だ。だが、そうした場合「そこまで言うのならお前が外を出歩くのをやめろ」という批判が出ることは当然予想される。


自動車メーカーや行政は今よりも事故を減らすことは可能ではあろう。ただし、それには費用がかかる。それによって車の代金や税金が跳ね上がる。また規制を強化することによって経済が停滞し、あるいは救急車でさえ事故を起こす可能性があるので使用できないということになり、助かるはずの人が助からないという事態になる可能性もある。メリットとデメリットを秤にかけて、デメリットが大きいと考えられるような主張をしたら、批判されることになるだろう。「被害者」だからといって何を言っても許されるというわけではない。


あの事件の場合、俺の記憶するところでは、事件当初の「自己責任論」というのは人質になったことが政府の迷惑になるといったものではなく、人質に近い人達から「自衛隊イラクから撤退しろ」という要求がなされたことによるものであったはずだ。「テロリストの要求に応じてはならない」というのは鉄則。特に日本は「ダッカ日航機ハイジャック事件」において国際的な批判を浴びたという過去がある。朝日新聞も事件発生翌日だったと思うが社説で自衛隊イラク派遣は反対だが、テロリストの要求に応じてはならないという趣旨のことを書いていた。ところが自衛隊撤退要求に対する自己責任論だったものが、なぜか文脈が変化していった。このあたりは非情に不自然な感じが今もしている。