疑問[]敵に塩をおくる

上杉謙信が、武田信玄に塩を贈る?(永禄12年=1569年1月27日)
「敵に塩をおくる」という故事は実は甲斐・信濃への塩輸送をストップしなかっただけ、という説がある。ウィキペディアにも

上杉軍の行動を支える軍費の大半は通商によって得られており、頼山陽が美談として激賞した「敵に塩を送る」という逸話も、実際には軍費調達の必要上から甲斐・信濃の商人への塩販売を禁じなかっただけと見ることも出来る。[要出典]

上杉謙信 - Wikipedia
とある。最近良く見かける説だ。


一体誰が言い出したのだろう?出典を知りたい。というのも、元々の説はそれなりに説得力のある説なのかもしれないけれども、上のような説明では納得がいかないからだ。


「甲斐・信濃の商人への塩販売を禁じなかっただけ」というのが事実なら、北条氏の塩留め以前から上杉・武田間で塩の輸出入があったことになる。北条氏の塩留めによって甲斐・信濃の領民の苦しみを救うためには越後は単に「甲斐・信濃の商人への塩販売を禁じなかっただけ」ではなく、北条氏の塩留めによる不足を全てではないにしろ必要最低限分は越後が肩代わりしなければならない。この時点で「だけ」ではない。


無論、上杉謙信が禁じなかったことにより越後の商人が自発的に甲斐・信濃への塩の輸出を増やしたのだと解釈することもできる。ただし塩が売れるからといって、そもそも塩の生産は消費量に見あったもののはずだ。誰も消費しないものを作るなんてことはおよそ考えられない。そして需要が出来たからといって簡単に生産量を増やせるかといえばそうはいかないだろう。売れそうだからといって設備投資したら武田・北条で和議が成立したなんてことになれば大損だ。


だとすれば、輸出増分はストックしていたものでまかなうということになろう。だがストック分といってもストックしているのにはそれなりの理由があるわけで、通常であれば直ちに困るということはないかもしれないがリスクを伴うものであることは疑いない。武田は敵だからそのようなリスクをあえて負う必要は本来無い。したがって「敵に塩を送る」が事実なら「甲斐・信濃の商人への塩販売を禁じなかっただけ」なんて簡単な話であるはずがない。


ただし塩を売って儲ける好機ととらえ、メリットとデメリットをはかりにかけて送ったという可能性はある。しかしそのような説明は上の記事には書かれていない。出典元には書いてあるのかもしれないが。


そう思いませんか?