続・武田信虎はなぜ追放されたのか?

この件については前にも書いた。
武田信虎はなぜ追放されたのか?


俺はこの問題は「武田信玄のラブレター」と同じく民族学的視点による考察が不十分だと思っている。


まず「王殺し」

ヨーロッパでは、古代においては宗教的意味をもって王を殺害する習慣があったとする説がある。これは、王が本来人間の身でありながら、宇宙の秩序を司る存在として君臨していたことに由来し、そのための能力を失った王は殺害して新たな王を擁立して秩序を回復させる必要があると考える、神秘主義的な古代概念である

王殺し - Wikipedia


中国には易姓革命論がある。

天は己に成り代わって王朝に地上を治めさせるが、徳を失った現在の王朝に天が見切りをつけたとき、革命(天命を革める)が起きるとされた。それを悟って、君主(天子、即ち天の子)が自ら位を譲るのを禅譲、武力によって追放されることを放伐といった。


日本においても君主の徳が高ければ世の中は平和だけれど、君主の徳が低いと世の中が乱れるという考えがあった。今でもあるかもしれない。


江戸時代の後西天皇は徳が無かったので天変地異が相次ぎ譲位させられたと伝えられている。

治世中には伊勢神宮大坂城・内裏などの炎上や明暦の大火、地方の地震、水害などが多発したため、当時の人々は天皇の不徳を責め、これをきっかけに譲位に至ったと伝えられている(『翁草』巻19「新帝践祚の事」)。

後西天皇 - Wikipedia


現代では地震や水害等の天災で被害が出ると「天災ではなく人災だ」といわれることがある。災害対策をしていれば被害が防げたという意味だが、防災技術が発達していなかった時代においても天災は「人災」(君主に徳がない)だと考えられていたのである。もちろん当時においても天災への対応が君主の能力に左右されるということはあったに違いないけれど、地震や台風や疫病や日照りや虫害などが発生すること自体を防ぐことは不可能だ。地震や台風は現代の技術をもってしても防げない。日本においては、乱れた世の中を「易世革命」で変えるという考えは希薄だけれども、君主を交替させるという考えはあったと思われる。より一般的だったのは改元であり、室町時代には改元を要求する一揆が起きた。


そしてこの考えは天皇だけではなく、地方を統治する大名にも適用されたこともあったのではないかと思われ、武田信虎の追放はその典型的な例ではないかと俺は推測している。


信虎は悪逆非道の王とされ、妊婦の腹を生きたまま裂いて胎児を見たと伝えられている。この妊婦の腹を生きたまま裂くという伝説は、殷の紂王の伝説と同じであり、紂王は周の武王に滅ぼされた。日本においては『日本書紀』の武烈天皇に同じ話がある。武烈天皇仁徳天皇の直系は絶えて応神天皇5世の子孫の継体天皇が後を継ぐ(それについて王朝交替説が唱えられているけれどそもそも史実がどれだけ含まれているのか俺は疑問視している。あくまで「伝説」ではないだろうか?しかしながら少なくとも「伝説」としては易姓革命を意識しているのは疑いないだろう)。


※ なお、妊婦の腹を生きたまま裂いて胎児を見たという話は中国や日本など東アジアだけではなく広く世界にあるようで、ギリシャがドイツに36兆円もの賠償金を要求しているという話で、ドイツ軍が同じことをやったとギリシャ人は信じているそうだ。
「ドイツを見習え」の虚構 ユーロがあぶり出すギリシャとドイツの戦後問題


信虎が妊婦の腹を裂いたというのはおそらく事実ではないだろう。しかしながら、それは「信虎は徳の無い王」だという考えがあったことを示唆しているのだろうと俺は考える。


では、なぜそう考えられたのかといえば「武田信玄が父を追放した行為を正当化するため」というのが「合理的な解釈」なのかもしれないけれども、俺はそうではなくて、信虎の時代に飢饉が相次いだことが原因ではないかと思う。なおこれについても飢饉の原因は信虎の領民に対する圧政というのが「合理的な解釈」なんだろうけれど、そうではなくて「信虎に徳がないから飢饉が起きた」という現代人からみれば(合理的な部分が一部にはあるにしても)非合理な考えを当時の人は信じていたことによるものではないだろうか?


また、信虎が「飢饉をかえりみず戦争に明け暮れた」というのは話が全く逆であって、飢饉対策を求める領民の要求により食糧を確保するための戦争に明け暮れた可能性があるのではないかと思われ、上杉謙信の戦争が実は食糧対策だったという研究があるそうだが(藤木久志『雑兵たちの戦場』?未読)、信虎の場合もそうではなかっただろうか?