菩提心院日覚書状について(その6)

既に書いたように村岡幹生教授は楞厳坊は京都にいて、上京した織田信秀周辺から発せられた三河情勢を聞いたと考えている。これが意味するところは、く信秀は積極的に情報発信していたということだろう。だからこそ楞厳坊が知ることができたのだ。


当然のことながら信秀周辺が発する三河情勢は楞厳坊だけではなく洛中の多くの人が耳にしたことだろう。ところが、信秀上洛および三河情勢は「他の史料で確認できない」ことなのだ。ちなみに織田信長が永禄2年に上洛したとき(『信長公記』で美濃が刺客を送り込んだとされている)、のことは『言継卿記』や『巌助往年記』に記録があるという(『織田信長』桐野作人)。


これはまあそういうこともあり得るかもしれないけれど、それにしても知れ渡っていたはずなのに記録に残らないというのは不思議なことであって、「あり得る」というだけで問題無しというわけにはいかないだろう。



さらにそれ以上に問題がある。


楞厳坊が京都にいる織田信秀周辺から発せられた三河情勢を聞いていたのなら、法華宗陣門流の京都本山である本禅寺も当然その情報を知っていたはずである。


そしてその情報は法華宗陣門流にとってただならぬ情報である。なぜなら陣門流の東海の拠点は遠州鷲津本興寺であり、鵜殿氏はその大檀那だからである。そのような重要な情報はただちに総本山の本成寺に伝えなければなるまい
本成寺 (三条市) - Wikipedia


ところが楞厳坊は越中加賀の日覚のもとに赴き、そこから日覚が楞厳坊が来てから10日も後に越後の本成寺に報告しているのだ。なぜこんな回りくどいことになっているのだろうか?


もちろん、楞厳坊には京都の本禅寺から直接情報が来ているという可能性はある。だがそれなら日覚もその可能性を考えるはずではないか?しかし日覚の書状からは、相手(本成寺)も知っているだろうということを前提にしたもののようには見えない。実に不思議なことだ。



一方、俺の仮説によってこの問題を考えれば、この情報は(三河にいて鵜殿から直接話を聞いた)楞厳坊だけが持っているものであり、楞厳坊から話を聞いた日覚が総本山本禅寺に報告しなければならない理由が十分にあるだろうということになる。


もっともこの場合でも楞厳坊は三河から上京したのだから、京都の本禅寺に「近日中に信秀が鵜殿を攻める」という情報を伝えているだろう(なお「三州平均」は日覚の推測だから伝えられるはずもない)。そしてその情報は本成寺に伝えられるはずだが、日覚の書状はやはりそれを本成寺が知らないのを前提にしたように書いてある。その点は謎である。


俺の推理では本禅寺はその情報を本成寺に伝えず、伝えなかったことを日覚は楞厳坊によって知っていたのではないかと思う。なぜ本禅寺は伝えなかったのかといえば、本禅寺が諸方面から入手した情報を元に分析した結果楞厳坊がもたらした情報の信用度が低いと判断したからではないだろうか。それに楞厳坊は納得せず越中加賀の日覚に直訴したということではなかろか?そして日覚は楞厳坊の目論見通り、楞厳坊の報告を真剣に受け取り、さらに書状を書いている時点では三河は信秀によって平定されているという(推測)情報を付け加えて本成寺に送ったということではないだろうか?


以上はあくまで俺の推理にすぎないけれども、村岡教授の言うように信秀が京にいて「三州平均」の情報を発信していたのなら情報を知っているはずの京都本禅寺は総本山本成寺に報告しているに違いないのに、なぜ越中加賀にいる日覚は本成寺がそれを知らないかのように書状を書いているのかというのは大問題であって、それに対する説明は必須のものであろうと思う。