「独逸」について

東京新聞:「独」国名の当て字やめて 漢字愛するドイツ人・八王子のシュミッツさん:首都圏(TOKYO Web)

<京都大人文科学研究所付属東アジア人文情報学研究センターの安岡孝一教授(人文情報学)の話> 国名の当て字の由来ははっきりしない部分が多いが、ドイツ(独逸)の場合、「独」と「逸」の2文字に関連性はないことなどから、音読みを拾ったものではないか。

なぜドイツに「独逸」の文字を当てるのかはともかく、「独逸」表記はいつからあるのだろうか?ということで調べてみた。


といっても俺はドイツに詳しくないから間違ってるところもあるだろうけど。


国名としてのドイツは「ドイツ帝国」(1871〜1918)だろう。
ドイツ帝国 - Wikipedia


明治維新より後のことになるけれども、ドイツという言葉はもちろんそれより前からある。「独逸」という表記はそれ以前よりあると考えられるので、「独逸」は国名としてのドイツではなく、ドイツ語・ドイツ人・ドイツ地方としてのドイツに当てられた表記ということになる。
※ あるいはドイツ連邦(1815〜1866)
ドイツ連邦


日本人がドイツについて知ったのはいつなのか知らないけれど、少なくともキリスト教宣教師が訪日した室町時代には、ある程度の情報は入っていたであろう。ただし、その頃に「ドイツ」という言葉が知られていたたとか、漢字で表記されてたということは知らない。マテオ・リッチの『坤輿万国全図』にある「入爾馬泥亜(Germania)」は知られていただろうがドイツは知らなかったかもしれない。


最近教科書検定で話題になった「鎖国」という言葉の元となったドイツ人のケンペルは1690年に来日したけれども、当時は「鎖国」であったので、彼はドイツ人ではなくオランダ人と認識されていたのではないかと思われ。江戸後期の『海外事類雑纂』には「阿蘭陀国検夫児先生」と書かれている。記憶は定かではないがシーボルトもオランダ人として来日したが、オランダ人ではないのではないかと疑われて「山ドイツ人」というオランダの地方に住む民族だとごまかしたということがあったような無かったような。


新井白石の『西洋紀聞』は1715年頃に成立したものだが、「ドイチ」と記されているそうだ(本邦におけるドイツ学の創始について : 蘭系ドイツ学書誌(池田哲郎)」。



で、いろいろ調べたところでは、「獨逸」という表記の最も古い例は1846年(弘化3)刊の『坤輿図識補』(箕作省吾著)であるという(日独二言語対訳辞書総覧 序 - 成城大学リポジトリ)。


一方、江戸後期の百科事典『厚生新編』には「獨逸都」と表記されている(『『厚生新編』にみる蘭学音訳語とその漢字選択 - 関西大学』)。『厚生新編』は1811〜39年頃成立(大辞林)だそうだから、「獨」はこっちの方が先だと思われる(ただしデジタル大辞泉には「文化8〜弘化3年(1811〜1846)にかけて訳出され」とある)。



「『厚生新編』にみる蘭学音訳語とその漢字選択 - 関西大学(徐克偉)」によれば、既に漢訳音訳語がある場合にはそれを使用し、無い場合は「漢人訳例」に倣って新しく翻訳するという方法であったようだ。すなわちDuitslandの漢訳音訳語が無かったので、新たに翻訳したということだろう。


ただし疑問が無いわけではない。


第一は、アイスランド(Iceland)は依斯蘭土・依蘭土、アイルランドは(Ierland)は依爾蘭土・意而蘭土、スコットランド(Scotland)は私各多蘭土、さらに人名のリセランド(Richerland)が李摂蘭土というように「land」は「蘭土」となっているのに対し、Duitslandが鐸乙都郎土と「郎土」になっている点。「蘭土」が新たな翻訳だとすれば「郎土」はそれ以前からあったのだと推測可能ではないだろうか?


第二は、Duitslandに「獨逸都」と「鐸乙都郎土」の音訳があるという点で、「獨逸都」はlandを省略したと考えることもできるけれども、それなら「鐸乙都」または「獨逸都郎土」として「獨逸都」か「鐸乙都」で統一されていてしかるべきであり、二通りの表記があるのは、これが新たな翻訳ではなく既にあったものだからではないか?という疑問。


ところでオランダについて。「訳編初稿大意」(馬場貞由,・大槻玄沢)によれば、「和蘭」というのが漢人の音訳で「おらんだ」のことで、日本では阿蘭陀と書く。原音では「おうらんど」で「和蘭」は「ど」が略してある(原文では「下略」とある)。(近期通称多きに従い)「和蘭」を使用して「おらんだ」とカナを付けるというようなことが書かれている。、「近期通称多きに従い」というのがちょっと意味わからないんだけれど、日本では「阿蘭陀」と書いて「おらんだ」と読むのが通例であるけど本当は「おうらんど」であり、一方中国では「和蘭」でこっちは「ど」が抜けてる。一長一短はあるけど漢訳を使用するのが原則で「和蘭」を使用し、一方日本では「おらんだ」と呼ぶのでそれも採用するということだろうか。


しかし、オランダを「和蘭」と訳し、そこに「ど」が抜けているのは、文字では「Holland」だけれど、耳で聞いたときに「ど」が聞こえるか聞こえないか程度だったからではあるまいか?で、それはそれでいいんだけれども、問題は「独逸」の方。


「逸」は「いつ」と読めるので「独逸」と書いて「ドイツ」と読むのだと思っていた。ところが徐克偉氏は論文で

「独逸都」を二字の「独逸」または単字の「独」と簡略で呼ばれるだけでなく、

と「独逸」を「独逸都」を簡略化したものと考えているようだ。だとしたら「独逸」は「ドイツ」ではなく「ドイ」だということになる。確かに「独逸」でドイツと読めるのなら「都」は余分である。もちろん「独」と書いて「ドイツ」と読むことができるのだから「独逸」と書いてドイツと読むこともできるとは言えるけれど、音訳という趣旨では「独逸」は「ドイツ」ではなく「ドイ」だということになるだろう。


だが、ここでさらに思うのは「独逸」とは「独逸都」を簡略化したというよりも、まさに「ドイ」を音訳したものではないのかという疑問。すなわち「Duits」を耳で聞いた時に、「ドイッ」みたいに聞こえたので「独逸」となったということは無いのだろうか?ドイツというのは(現地の発音まったく知らないんだけど)「Duits」ではなく「Deutsch」の音訳ではなかろうか?なんてことを思ったりする。



最後に「独」について。「独」が獣偏で差別だというのは考えすぎであろう。単にドの当て字として「独」が使われたにすぎないと思われる。しかしなぜ「独」なのかは謎。漢字変換に厳格なルールがあったようには思えないが何らかの方法論があったようではある。それがどのようなものであったのか不明だが、「漢人訳例」に倣うということがあったようなので、ドを獨と表記する例が中国にどの程度あり、そこに規則性のようなものがあるのかを調べてみるべきなのかもしれないが、俺は到底そこまではできない。


(追記14:17)
上に

「獨逸」という表記の最も古い例は1846年(弘化3)刊の『坤輿図識補』(箕作省吾著)であるという(日独二言語対訳辞書総覧 序 - 成城大学リポジトリ)。

と書いた。正確に引用すれば

田中梅吉氏によれば、「獨逸」の漢字が使われたのは、箕作省吾著『坤輿図識補』(弘化3年刊-1846年)が最も早い例であるという。

同論文では田中梅吉著『総合詳説日獨言語文化交流史大年表』370ページにあると注記されている。ところで『坤輿図識補』は 『坤輿図識』の増補であるからして 『坤輿図識』には何と書いてあるのかと調べてみれば、ネットで公開されている早稲田大学図書館所蔵の『坤輿図識』の「孛漏生(プロイセン)」の項に

現今ハ国王獨逸ノ連合州ニ加ル、

等のように『坤輿図識』にも「獨逸」の文字が使われている。これはどうしたことだろうか?ちなみに早稲田大学図書館所蔵のものは表に「弘化二年乙巳刊行」(1845)とあるが末尾に「弘化四年手丁未十一月」とある。『坤輿図識補』の方は表が「弘化三年丙午鐫」で末尾は同じ「弘化四年手丁未十一月」。


「箕作省吾『坤輿図識』 一著者をめぐる1, 2の問題一」という論文に刊行年の問題が書かれているけれど、この辺の事情はよくわからない。なお箕作省吾は弘化3年12月に死去。『坤輿図識補』は未完。義父阮甫が「偉人伝」四編を加えて刊行したそうだ。
『坤輿図識』


田中梅吉という大正-昭和時代のドイツ文学者が『坤輿図識補』が「獨逸」表記の最も古い例と言っているのだとしたら、そこには複雑な経緯を勘案してのことだという可能性もある。たとえば4年刊の『坤輿図識』に「独逸」とあるのは後で加えられたものみたいな。俺が「弘化四年」とある『坤輿図識』しか見てないのでふと思っただけだけど…


『坤輿図識』を見落としたというのはちょっと考えられないが可能性ゼロではない。なお「弘化3年刊」としているが「弘化三年丙午鐫」の「鐫」とは「彫刻する。ほる。きざむ」(大辞林)という意味であるから刊行ではなく版木を作成したという意味であろう。ただし3年12月に省吾が死去した時には未完だったのだから、これ自体にも問題があるけど。


そもそも田中博士の原文を見てないという問題があるが、それを紹介しているのも信岡資生という学者なのだから、そこは信用して良いと思われ。大いに謎。