続・メッケルが関ヶ原は西軍の勝ちと言ったというのはガセという話について

アクセス解析の機能が無いので正確なところはわからないけれども、このブログの中で一番読まれていると思われる記事。
メッケルが関ヶ原は西軍の勝ちと言ったというのはガセという話について

ネット検索して簡単に見つかった情報をまとめて、ちょこっと感想を入れただけの、俺のブログの中では最もお手軽な記事の一つが一番読まれているというのは、何と言いますか…


しかし、俺の言いたいことがちゃんと伝わってるかは、かなり不安なので、も一度説明しておく。


司馬遼太郎は「メッケル」が「石田方の勝ち」と言った
海音寺潮五郎は「ドイツの有名な戦術家」が「西軍は負けるはずがない」と言った


「石田方」と「西軍」、「勝ち」と「負けるはずがない」の違いは、仮に元ネタがあったとしても、それを忠実に紹介したものではなく、作家の言い方の違いだろうから特に問題はない。


大きな違いは「メッケル」と「ドイツの有名な戦術家」。海音寺が「ドイツの有名な戦術家」と書く人物はメッケルかもしれないし別人かもしれない。ただしメッケルは有名人なので、あえて名前を出さないということは考えにくく別人の可能性の方が高いように思われるが、メッケルの可能性も決して低くはない。


そこで、考えられる可能性として「司馬と海音寺が偶然似たような話を創作した」というのは、まず有り得ず、海音寺の方が先だと考えられるから、
(1)「司馬が海音寺を参考にした」
(2)「司馬と海音寺は何らかの情報を参考にした」
のいずれかであろう。


(1)「司馬が海音寺を参考にした」の場合は、海音寺が「ドイツの有名な戦術家」としているのを司馬が「メッケル」と改変したことになる。ただし『武将列伝 戦国終末篇』しか確認してないので海音寺が別のところでメッケルと言ってる可能性はある。あるいは海音寺と司馬の間に第三者がいて、そこで改変された可能性もある。


(2)「司馬と海音寺は何らかの情報を参考にした」の場合、元ネタがあったことになるが、現在のところ確認されていない。なお元ネタがあったとしても、その元ネタが伝えることろが事実の可能性もあれば虚構の可能性もある


なお、この「逸話」をどう捉えるかだが、メッケルに関心がある人にとっては、メッケルが言ったか言わなかったがが最大の問題になるが、関ケ原合戦に関心がある人にとっては、発言者がメッケルであろうと別のドイツ人戦術家であろうと、近代西洋の軍事専門家が「西軍の勝ち」と言ったのか否かの方が重要であろう。


あと、この「逸話」に関しては、多くの著名な歴史研究者が紹介している。ただし出典は書いてない。彼らがどこでこの逸話を入手したかが問題になるが、「メッケル」と書いてあるので、「メッケル」が司馬の創作(誤解によるものかもしれないが)であれば、(間接的なものかもしれないが)司馬を信じてしまったことになる。一体どうしてそんなことになってしまったのか?司馬は歴史研究者に影響を与えるほど偉大なのか?そこは大いに関心のあるところ。



ところで、俺の現在の考えでは、(2)「司馬と海音寺は何らかの情報を参考にした」の可能性が高いと思う。というのも司馬は海音寺には無い情報を提示しているからだ。

メッケルという人は、当時世界的な戦術家だったモルトケの愛弟子ですが、その頃の陸軍大学はドイツ風で、参謀旅行というのがありましてね、参謀をつれて現地に行って、地図によって架空の作戦を立てて訓練をしたものなんです。メッケルは関ヶ原に来て、合戦を彼自身がやったんですね。その時メッケルは、まずこの配置図を見まして、石田方の勝ちと言っちゃうんです。
『日本史探訪』(海音寺潮五郎応援サイト 〜 塵壺(ちりつぼ) 〜)より

ここに参謀旅行とある。海音寺の『武将列伝 戦国終末篇』には無い情報だ。


国立国会図書館デジタルコレクション」で検索すると、「官報. 1888年02月08日」に

  〇陸海軍
〇参謀旅行 参謀本部陸軍部第一第二第三局長及監軍部並ニ各鎮台参謀長其他右同等ノ軍医監会計監督等福岡小倉地方ニ於テ凡三週間参謀旅行ヲ施行スルニ付キ小澤中将之ヲ統監シ教師メツケルト共に昨七日出発ス(陸軍省

とある。メッケルが参謀旅行に教師として随行したことがあったのは事実。ただし場所は九州。


関ケ原方面だと「官報. 1889年10月04日

  〇陸海軍
〇参謀旅行 参謀本部ニテハ一昨二日ヨリ三週間尾張美濃地方ニ於テ参謀官ノ参謀旅行ヲ施行ス(陸軍省

がある。ただしメッケルは参加していない。なぜならメッケルは1888年3月にドイツへ帰国しているから。


よって、ドイツ人の戦術家が参謀旅行で関ケ原に行った時に「西軍の勝ち」と発言したとするならば、それはメッケルではない。では誰かと言えばフヲン、ヴユルデンブルヒ(フォン・ビィルデンブルヒ)」という名のプロイセンの参謀少佐。


なお九州の参謀旅行に統裁官メッケル参謀少佐と共に副統裁官として随行している「フヲン、ブランケンブルヒ」という大尉がいる。「ブランケンブルヒ」は「官報. 1888年10月12日」では

〇明治二十一年十月五日
叙勲三等贈与旭日中綬賞 陸軍省雇孛漏西国陸軍参謀少佐
ヘルマンレオポルドルードウ井ヒフオンブランケンブルヒ

とあって少佐に昇進している。「フォン・ブランケンブルヒ」と「フォン・ビィルデンブルヒ」名前似てるけど別人。あと「グルートシュライベル少佐」という人物がいたそうだが、彼らが「ドイツの有名な戦術家」と言えるのかといえば、当時はそれなりに有名だったのかもしれないけど、メッケルの知名度には遠く及ばないと思われ。



「参謀旅行」という言葉を採用すれば、「西軍の勝ち」エピソードが関ケ原でのことならばメッケルではなくビィルデンブルヒ。メッケルだとすれば九州その他の参謀旅行でのこと。あるいは参謀旅行でのことではないかもしれない。そしてもちろん史実ではない可能性もある。ただし史実でないとしても参謀旅行の際にそういう発言があったというエピソードが当時から語られていた可能性もある。


なお、参謀旅行とは、陸軍参謀が東軍と西軍に分かれて作戦を立てて勝敗を競う訓練であり、実は「西軍の勝ち」とは「石田方の勝ち」という意味ではなく、陸軍参謀の西軍の勝ちというのが誤まって伝わった可能性もあるのではないかと思う(実際、1989年の参謀旅行は敦賀に上陸した西軍が関ケ原に進出し、そこから岐阜・名古屋・岡崎へと東軍を圧倒している。「明治二十二年十月尾濃地方参謀旅行記事」をざっと見ただけだが。