さて前回書いた「鵯越の逆落としが日本軍の奇襲の云々」について。
「これはかなりまじめな話です。事実、俗説を『歴史的事実』と誤解し、それを根拠に物事を決定して、失敗してしまった例は多い」
「例えば、太平洋戦争。日本軍が奇襲を多用した背景の一つに、源義経が一ノ谷の戦いで見せた(断崖絶壁を馬で駆け下り、敵陣の背後を急襲した)『鵯越の逆落とし』があったと言われます。「『義経は奇襲で平家の大軍に勝った。だからわれわれも、奇襲でアメリカに勝てる!』と思ったわけです」
「しかし奇襲が上手くいったのは真珠湾攻撃など最初だけで、あとは連戦連敗でした」
「実は最近の研究では、鵯越の逆落としは『平家物語』の創作で、事実ではない、と考えられている。現実の義経は、非常に用意周到な武将だったことが分かってきています」
「その場で奇想天外な作戦を思いついたのではなく、自身に有利な態勢を着々と整え、勝つべくして勝った。義経の作戦をきちんと研究していれば、『奇襲で戦争に勝てる』などという見当違いの教訓を導き出すことはなかったでしょう。歴史を物語として学んでしまうと、こういう大やけどをすることもあるのです」
(はじめに)
最初に断っておくけど、俺は太平洋戦争史について全く詳しくない。したがって(1)「日本軍が奇襲を多用した」 (2)(多様した背景に)「『鵯越の逆落とし』があった」のいずれも、本当にそうなのかわからない。「日本軍が奇襲を多用した」についてはそうかもしれない。ただしどんな作戦があったのか具体的には知らない。対米戦争の当初の計画では米軍に大打撃を与えて早期講和に持ち込むというものだったはず。その頃の奇襲と、計画が破綻した後の奇襲では意味合いが違うだろうとも思う。その背景に『鵯越の逆落とし』があったのかは大いに疑問に思う(強く否定できるだけの知識を持ち合せてないけど)。あとインパール作戦を鵯越作戦と呼ぶそうだが、だからといって鵯越を教訓にしたと言えるかは疑問。鵯越のようだから鵯越作戦と呼んだだけかもしれない。
(本論)
「歴史に学ぶくらいならワンピースを」は2018/08/06付の記事だが、呉座氏はそれより前の2014/7/4にn「歴史から教訓を学ぶということ」という記事を書いている。
太平洋戦争開戦直前、聯合艦隊司令長官の山本五十六は、海軍大臣の嶋田繁太郎に書簡を送っている。山本はその中で「艦隊担当者としては到底尋常一様の作戦にては見込み立たず。 結局、桶狭間とひよどり越と川中島とを併せ行ふの已むを得ざる羽目に追込まれる次第に御座候」と述べ、博打的として海軍内で反対意見が強かった真珠湾攻撃作戦への同意を嶋田に求めている。
周知のように山本五十六は、日米の戦力差から日本に勝算なしと捉え、戦争回避を望んでいた。だが日米関係の悪化にともない、国策の転換は困難と考えるようになり、開戦劈頭、航空兵力によって米海軍の本営に斬り込むという真珠湾作戦にのめりこんでいった。その際、奇襲作戦の成功例として思い浮かべたのが、桶狭間・一ノ谷・川中島であった。
俗に「歴史にifはない」と言うが、桶狭間も一ノ谷も川中島も巧妙な奇襲戦ではないと仮に山本五十六が知っていたとしたら、対米開戦に賛成しただろうか。真珠湾奇襲は見かけの戦果とは裏腹に、アメリカ国民の士気を奪うという目的を果たせず、かえって彼らを結束させてしまった。偽りの史実からは間違った教訓しか導けない。それこそが、私たちが歴史から学ぶべき教訓ではないだろうか。
要するに山本五十六は「桶狭間とひよどり越と川中島」の奇襲戦の成功を「戦訓」として真珠湾攻撃を行ったというのだ。しかしこれは明らかな誤解だろう。最初に書いたが俺は太平洋戦争史に詳しくない。それでもわかる。
なぜなら「結局、桶狭間とひよどり越と川中島とを併せ行ふの已むを得ざる羽目に追込まれる次第」から、山本五十六がそれらを教訓にしたという意味の解釈は到底無理だからだ。
「併せ行ふ」と書いてあるのだから、「桶狭間とひよどり越と川中島」を同時に行うという意味なのは明らかだ。だから、これは鵯越レベルでは勝てないということだ。鵯越をすれば勝てるというのとは真逆の意味だ。
つまり日本の戦史に特筆される桶狭間合戦・鵯越・川中島合戦をもってしても勝てない。それら三つを同時に行うという史上前例の無い、およそ不可能に近い作戦を行わざるを得ない状況に追い込まれたという意味でしょう。
それを呉座氏はなぜか「併せ行ふ」を省いて「桶狭間合戦や鵯越や川中島合戦のような」と解釈しているようだ。たとえて言えば「鬼退治には犬と猿と雉が仲間になる必要がある」を「犬さえいれば鬼退治できる」と解釈しているようなものだ。あるいは料理のレシピに「調味料は塩・砂糖・醤油が必要」と書いてあるのを「塩さえあれば料理ができる」と解釈するようなものだ。およそありえない解釈だろう。
そして、これは作戦がいかに困難かを表現したものであって、史実の桶狭間合戦・鵯越・川中島合戦がどうであろうが、創作だろうが不都合では全くない。たとえば何らかのプロジェクトの困難さを表現するのに「デススターのハイパーマター反応炉へと通じる換気ダクトにプロトン魚雷を打ち込むほど困難だ」と言ったとして「それは創作だ。お前はそれを史実だと思ってるのか?」とツッコミ入れる人はいるんだろうか?(いるかも)。しかしスターウォーズを見たことのある人だったら普通は「フォースを持たない普通の人が成功する可能性はほぼゼロだろう。それほど困難なのか」と受け取ることができるのではないだろうか。事実だろうが虚構だろうが共通認識さえあれば良いことなのだ。
三国同盟の締結、日本海軍の海南島占領や北部仏印進駐などにより、日本とイギリスやアメリカの関係は急速に悪化していった[158]。当時の総理大臣であった近衛文麿の『近衛日記』によると、近衛に日米戦争の場合の見込み問われた山本は
「それは是非やれと言われれば初め半年や1年の間は随分暴れてご覧に入れる。然しながら、2年3年となれば全く確信は持てぬ。三国条約が出来たのは致方ないが、かくなりし上は日米戦争を回避する様極極力御努力願ひたい」と発言している[159]。
井上成美は戦後この時の山本の発言について「優柔不断な近衛さんに、海軍は取りあえず1年だけでも戦えると間違った判断をさせてしまった。はっきりと、『海軍は(戦争を)やれません。戦えば必ず負けます』と言った方が、戦争を回避出来たかも知れない」と述べている[160]。
とある。これを見るに山本五十六という人は、ほんの僅かでも可能性があれば「必ず」「絶対」(負ける)とは言えなかった人のようだ。学者ならばそうであるべきかもしれないが…
呉座氏は、山本五十六の書簡にある「併せ行ふ」の意味を理解しなかったのだろうか、全くおかしな解釈をしてしまったのである。呉座氏は古文・漢文どころか現代文さえろくに読めないのだ。たっ一例だけでそこまでは言えないと思われるかもしれないが、実は現代文さえろくに読めてない例は他にいくつもあるのである。それについてはまた他に書く予定。
※ ところで『日本史の新常識 (文春新書) 』(2018/11/20)に本郷和人氏の「応仁の乱は「東軍」が勝った」という記事があるのだが、
戦前の日本軍も長篠の戦いのメッセージを摑みそこねました。日本軍は信長が今川義元を倒した桶狭間の戦いや、義経が平家を蹴散らした「鵯越の逆落とし」など、なぜか奇襲戦ばかりを戦史から学んでいました。奇襲戦は結局のところ弱者の戦術です。
とある。「歴史に学ぶくらいならワンピースを」(2018/08/06)より後に出版されたもの。こっちは史実と違うからではなくて「弱者の戦術」だという批判。
※ また高橋昌明氏の『武士の日本史 (岩波新書) 』(2018/5/23)に
さらに深刻な問題は、近代の軍人による軍の立場からの架空戦史の誕生が、近代の指導的軍人の思考と志向を縛り、史実とかけはなれた「戦訓」をもとに、現実の戦争を構想させ実際に実行する、という愚を犯させたかも知れないことである。著名な例だが、日米開戦必至の状況のなかで、ハワイ真珠湾奇襲の必要を主張した連合艦隊司令長官山本五十六は、海軍大臣嶋田繁太郎に宛てた昭和16年(1941)10月24日付書簡で、「結局桶狭間とひよどり越えと川中島とを併せおこなうの、やむをえざる羽目に追い込まれる次第にござ候」とみずからの立場を説明している。
とある模様。なぜか2018年に日本中世史研究者によって同じことが指摘されてる。本郷氏は別として、高橋・呉座両氏は史実との違いを問題視してる。中世史研究者としてはそこが気になるのかもしれないが、上に書いたように文脈を見れば史実か否かは重要なことではないと思いますけどね。ただし高橋氏は「愚を犯させたかも知れない」と呉座氏よりは慎重に扱っている。これは呉座氏だと
とかなり強く肯定的に書いてる。