迹見首赤檮(とみのおびといちい)

「守屋合戦」において物部守屋を射落としたとされる迹見首赤檮(とみのおびといちい)について。

同年7月、馬子は群臣と諮って物部討伐を決め、諸皇子、諸豪族の大軍を起こして守屋の本拠河内国渋川郡へ向かった。軍事氏族の物部氏の兵は精強で稲城を築き頑強に抵抗し、守屋は朴の枝に登って雨のように矢を射かけた。討伐軍は3度撃退されてしまう。従軍していた厩戸皇子は四天王像を刻んで戦勝を祈った。討伐軍は奮い立って攻め立てた。赤檮は守屋のいる大木の下に忍び寄り、守屋を射落とした(『伝暦』では、厩戸皇子が四天王の祈願を込めた矢を赤檮に与えたとされる)。物部氏の軍勢は逃げ散った。

迹見赤檮 - Wikipedia


俺はこの「赤檮(いちい)」という名前がとても気になっている。


厩戸皇子が四天王像を刻んだのは「白膠木(ぬるで)」であった。
ヌルデ - Wikipedia
『全現代語訳 日本書紀』(宇治谷孟 講談社)の注に、

勝軍木とも書く。霊木とされ、仏像の心木にも用いる。この木を刀にこしらえ、戸口におけば邪気を払うとする民俗もある。

とある。


一方、「赤檮(いちい)」は「いちい樫(一位樫)」の「いちい」であると考えられる。
イチイ - Wikipedia

日本(一説には仁徳天皇の時代)では高官の用いる笏を造るのにこの木が使われた。和名のイチイ(一位)はこれに由来するという説もある。

笏 - Wikipedia

笏には、象牙製の牙笏(げしゃく)と木製の木笏(もくしゃく)とがある。かつては五位以上の者は牙笏、六位以下は木笏と決まっていたが、後に位階に関係なく礼服のときにのみ牙笏を用い、普段は木笏を用いるようになった。今日神職が用いているのは木笏である。牙笏は象牙や犀角、木笏はイチイやサクラの木材を用いて製作した。


「白膠木」も「赤檮」も霊木であるといえるだろう。そして「白」と「赤」の字を含んでいる。これにどういう意味があるのか俺にはわからないけれど、何らかの宗教的・呪術的な意味があるのは、おそらく間違いないであろう(既に誰かが指摘しているのかは知らないけれど)。


だが、それだけではない。俺には「いちい」という名前にとてつもない意味が込められていると思うのだ。


(つづく)

迹見首赤檮 (その2)

迹見首赤檮(とみのおびといちい)の続き。


物部守屋を射落としたとされる迹見首赤檮(とみのおびといちい)。俺はこの「いちい」という名前がとてつもなく気になる。


先に俺は「お市の方の「市」の意味」という記事を書いた。「いち」には聖と俗の中間という意味がある。

人々が市を立てた場所はみな、人間の力を超えた聖なる世界と世俗の人間の世界との境であったと見てよいと思います。
(『歴史を考えるヒント』網野善彦 新潮選書)

イチは一方に神に仕える女性を意味すると共に、九州などでは亦単に稚児といふ義にも用ゐられて居た。
(『柳田國男全集11』筑摩書房

柳田によれば神和ぎ系巫女は、関東ではミコ、京阪ではイチコといい、口寄せ系巫女は京阪ではミコ、東京近辺ではイチコ アズサミコという。

巫女 - Wikipedia


柳田國男「いちい」についても言及している。

武蔵に於ては秩父両神山の登路、即ち秩父郡両神村大字薄の富士見阪の下に、一位墓(いちゐばか)と称する文字無き自然石の碑が路の側にあつた。此山女人禁制であるのを、巫女あつて強ひて登らんとし、此処に於て石になつた。一位のイチとはかんなぎの事であると云ふ(新篇武蔵風土記稿)。
(『柳田國男全集11』筑摩書房


「一位のイチとはかんなぎの事である」


聖徳太子誓願により迹見首赤檮に霊的な力が宿り、見事に物部守屋を射落としたとするならば、迹見首赤檮はまさに「かんなぎ」であろう。


ところで、この迹見首赤檮の話とそっくりな、そしてとても有名な話がある。


(つづく)

迹見首赤檮 (その3)

「迹見首赤檮(その2)」の続き。


物部守屋を射落としたとされる迹見首赤檮(とみのおびといちい)。この話にそっくりな、そして有名な話とは、平家物語』の那須与一が扇の的を射落とした逸話

おきには平家船を一面にならべて見物す。陸には源氏くつばみをならべて是を見る。いづれいづれも晴ならずといふ事ぞなき。与一目をふさいで、「南無八幡大菩薩、我国の神明、日光権現宇都宮、那須のゆぜん大明神、願くはあの扇のまなか【真ん中】ゐ【射】させてたばせ給へ。是をゐ【射】そんずる物ならば、弓きりおり【折り】自害して、人に二たび【二度】面をむかふ【向ふ】べからず。いま一度本国へむかへ【向へ】んとおぼしめさ【思し召さ】ば、この矢はづさ【外さ】せ給ふな」と、心のうちに祈念して、

平家物語・龍谷大学本・全巻(J−TEXTS 日本文学電子図書館)を編集。


源義経に扇の的を射よと命じられた那須与一は、神仏に祈った後に扇を見事に射落としたのであった。


注目すべきはもちろん那須与一」の「一(いち)」である。あと「源氏の白旗、平氏赤旗」と、ここでも赤と白の対比があることにも注意を払うべきかもしれない。


俺はこれがとても偶然だとは思えない。


そして偶然ではないとすると、さらにとてつもないことが思い浮かぶのである。


(つづく)

迹見首赤檮 (その4)

「迹見首赤檮(その3)」の続き。


物部守屋を射落としたとされる迹見首赤檮(とみのおびといちい)と、扇を射落とした那須与一の話は同系統の話であると俺は考える。


ところで、那須与一の射落とした扇は、

みな紅の扇の日いだし【出し】たる

平家物語・龍谷大学本・全巻
ものであった。つまり、「赤地に日の丸」ということだ。


すなわち、これは「太陽を射る話」である。


China ABC----第十六章:民間物語 :後羿、太陽を射る

太古の時代、空には十個の太陽が同時に昇り、その強い日差しは大地を焼き焦がし、畑の作物は枯れ、人々は暑さのために息もできず、次々と気絶して倒れていった。また沢山の妖怪や猛獣たちも、枯れた湖や蒸し暑い森林から現れ、人々に害を与えていた。

 人類がこの災難を受けたことは天帝を驚かせ、天帝は弓の神である後羿に下界に降りて、人々をこの災いから救うように命じた。後羿は天帝から授けられた赤い弓と一筒の白い矢を持って、美しい妻の嫦娥と共に人間世界へとやって来た。

ここに、「赤い弓と一筒の白い矢」とある。これが偶然のわけがない。「白膠木と赤檮」がここに源流を持っていると考えてまず間違いない。


このことは既に誰か指摘しているのだろうか?俺は知らないが。


ちなみにこう考えると物部守屋は太陽である。少なくとも太陽の属性を持っていると考えるべきである。


さて、話はこれで終わりではない。これをさらに考察すると、まだまだとてつもないことを思いつくのである。


(追記 1/17 17:00)

天帝赐给羿一张红色的弓,十支白色的箭。

羿_百度百科


また、「中国的こころ」というサイトによると、羿についての4つの伝説があり、その1つに、

舜のときの諸侯であり、貪欲で飽くことを知らない伯封を后羿が滅ぼした。 さらに舜の命で、赤い弓と白い射ぐるみを賜って、下の国を討ったという。

とある。また、

黄河の支流である洛水の女神である洛嬪(らくひん)を妻とする。洛嬪に恋した后羿(こうげい)により左目を射抜かれた。

河伯 - Wikipedia
という伝説もある。これは重要。


(追記1/18)
なお俺はこの(その4)の記事を書く直前まで「太陽を射る話」に「赤と白」という要素があることを知らなかった。赤檮や与一の伝説と「太陽を射る話」に似た要素があるということのみを書くつもりでいたところ、上の後羿の伝説に「赤い弓と一筒の白い矢」とあって、非常に驚いたのであった。

髑髏盃

迹見首赤檮の話はまだつづくけれど疲れたので明日以降。


昨日の大河で「髑髏盃」の話があったのでそのことについて。


この話は『信長公記』に載っている。ただし盃にしたとは書いていない。ウィキペディアによると『浅井三代記』に盃にしたと書いてあるそうだ。
髑髏杯 - Wikipedia

(2017/12/04追記)『浅井三代記』にそんなことは書いてない
国立国会図書館デジタルコレクション - 史籍集覧. 第6冊
ここでいう「御盃」とは「酒宴」と解釈すべき。


信長公記』は比較的信用のおける史料として、その記述がよく採用されてはいる。ただし桶狭間合戦の年が違うなど歴史史料として問題もあるとされている。


だが、それ以前に、史実であるか疑わしい伝説的要素が含まれているのではないかと思われる話も載せられている。たとえば前に書いた「蛇池」や「火起請」の話など。


信長の髑髏盃の議論でよくあるパターンは、「それって本当なの?」→「信長公記に書かれている」→「ただし盃にしたとは書いてない」→「盃にしたというのは改竄である」→「ではなぜ髑髏を披露したのか?」ときて「そんなの知るか」とか「真言立川流の影響」だとかあれこれと言われるのがお決まりのコース。


しかし、盃にしたという話は本当に改竄なのだろうか?可能性としては、盃にしたというのが「本当の伝説」であり、それではあまりにどぎついので太田牛一がマイルドに改竄したということだって有り得るではないか。


ウィキペディアに類話が載っているように、髑髏を盃にしたという話の方がメジャーであり、酒の肴にしたという話のほうがマイナーであろう。すなわち『信長公記』の髑髏の話は史実ではなく、かつ本来の盃にしたという話を削除したものだとするほうが俺にはしっくりくるのである。