唯物史観という擬似科学

唯物史観は「科学」であると考えられてきた。しかし今から見れば疑似科学そのものであろう。いや「今から見れば」と書いたけれど、マルクス主義全盛期の学者はおかしいと思わなかったのだろか?


唯物史観が「科学」だというのは、近代になって科学が発達し、いろいろな現象が科学で説明できうようになってきた。そこで人間の社会についても科学を用いれば過去や現在の現象が説明できるし、将来の予測も可能になるだろうという発想から生じたものだろう。具体的には生物学における進化論を社会理論に応用しようとする社会進化論が発生し、マルクスダーウィンの進化論が唯物史観の着想に寄与したと述べている。
社会進化論 - Wikipedia


その発想自体は全然おかしなことではないけれど、しかしその理論が現実と相違していることが明らかになってきた。最初のうちは修正すれば何とかなったかもしれないけれど、修正しても修正しても問題が次から次へと出てくる。


そうなってくると理論自体が間違ってるんじゃないかと、そう考えるのが自然というものだけれども、優れた頭脳を持つ学者先生たちは、それでも懲りずに修正して何とか理論と現実を合致させよともがき苦しんでいる。
日本現代史序説講義ノート
この講義ノートを見ていると、日本の歴史学者はバカなんじゃなかろうか?って思えてくるんだけど、当の先生方は極めて真面目にこの問題に取り組んでいる。


「バカなんじゃなかろうか?」ってのは今だから言えることで、当時はちゃんとした科学だったんだって、まあそういう言い方もできるんだろうけれど、しかし、そんなにも理論自体がおかしいのだということに気付くことが難しかったのだろうか?


俺にはそうはどうしても思えない。これは科学的な問題というよりは、マルクス主義を絶対視する信仰のようなものが、学者の目を眩ませてたんだとしか思えない。



ところで、常々気になっているのは、日本史関係の本などを見ていて皇国史観に対する批判・反省はしばしば見かけるのに、唯物史観に対する批判・反省というのはそんなには見かけないことである。これはどういう理由によるものだろうか?


皇国史観は戦争と結びつき多大な犠牲者を出した。一方、唯物史観は日本においては多大なというほどの犠牲者(死者)を出していないからということだろうか?確かに現代の日本人の思想において太平洋戦争は大きな位置を占めていて、それに関係した皇国史観というものが、そうでもない唯物史観よりも重要な課題として取り上げられるということはあるかもしれない。


ただし唯物史観は日本においては多大な犠牲を出さなかったかもしれないけれども、世界的に見れば(唯物史観を基礎とする共産主義による)犠牲者の数は膨大なものとなる。また日本において犠牲者が少なかったのは唯物史観が無害だったからではなくて、日本の知識階級の多くがマルクス主義に染まっており、歴史学を含む人文・社会系の学問において主流であったにもかかわらず、一般国民は革新勢力に政治権力を持たせなかったという、いわば「反知性主義」の態度を取ったからだろうと俺なんかは思うわけで。


(なお太平洋戦争においても唯物史観は無関係だったかというとそうでもないらしく、日本はアジアの中で(発展段階の)最も進んだ国だと認識し他国を蔑視する態度を育てたということもあるみたい。詳しくは知らないけど)

楽市楽座とは何だったのか?(その1)

楽市楽座とは何だったのか?何だったのかというのは、従来の見解が見直されているという中で、従来の見解とはどういったもので、現在の見解はどういったものか?そしてこれが「中世から近世へ」という時代の変化の中でどうい意味を持っていると考えられるのかということ。とりあえず信長の独創ではなかったとか、そんなことはどうでもいい。


なお、既に書いたように俺は「楽市楽座」というものにほとんど興味がなく「楽市楽座って既得権を廃止したものでしょ」くらいの認識しかなかったので、ほぼゼロからのスタート。


まずウィキペディア

既存の独占販売権、非課税権、不入権などの特権を持つ商工業者(市座、問屋など)を排除して自由取引市場をつくり、座を解散させるものである。中世の経済的利益は座・問丸・株仲間によって独占され既得権化していたが、戦国大名はこれを排除して絶対的な領主権の確立を目指すとともに、税の減免を通して新興商工業者を育成し経済の活性化を図ったのである。

楽市・楽座 - Wikipedia

うん、そうだよねって思う。俺が学校で習ったのもそんな感じだった。ということはこれは「従来の説」ということになるのか?だとして最近の研究では何が否定されたのか?


同じくウィキペディアの記事にこうある。

更に近年では中世日本の都市を中世西欧の自由都市と比較しようとして、楽市・楽座そのものを過大評価しているとする批判もある。そもそも楽市自体が城下町や領内の主要都市に商人を集めるための政策であり、大名がこうした地域に対して何らかの統制を意図しなかったとは考えられないというものである。

「大名がこうした地域に対して何らかの統制を意図しなかったとは考えられない」この意味がわからない。「いやそりゃそうでしょ」って思う。だって、それこそが「中世から近世へ」ってことでしょう。まあその前に「中世日本の都市を中世西欧の自由都市と比較しようとして云々」とあるのからして謎だ。楽市楽座」は中世を破壊するものではないのか?

また、一見して商人による自治を認めながら、実際にはその自治の責任者の地位にいるのは大名の御用商人や被官関係を結んで商人司など大名が定めた役職に任じられたものであり、商人司を通じて大名の経済政策に沿った方針が浸透していたと言われている。更に織田政権が楽市・楽座を推進する一方で座の結成・拡張を図っている事例もある。

これも謎。だって、それこそが「中世から近世へ」ってことでしょう。違うの?自治的な中世から集権的な近世へってことではないのか?

つまり、楽市楽座は一見上は規制緩和を掲げながら、実態は大名による新たな商業統制策であって江戸時代の幕藩体制における商業統制の先駆けであったとする指摘もある。

だから、そりゃそうでしょう。冒頭に「更に近年では」とあるけれど、これが近年の説なのだろうか?だとしたらむしろ信長は革命児と評価されるべきだという逆の話になってしまいそうなんだが。


何かおかしい。まあ所詮ウィキペディアだし、ってことなんだろうか?

楽市楽座とは何だったのか?(その2)

考えれば考えるほど謎が深まる。


信長の「楽市楽座」令が「革命」とか「革新」とされる場合の「革命・革新」とはどういう意味かといえば、中世から近世へ移行させる役割を果たしたってことですよね?違うのだろうか?


で、中世とは何かといえば、俺の考えでは強力な権力がない分権的な社会。自分の身は権力に守ってもらうのではなくて自力で守る社会。農民は武装して自分たちの身体・財産を守る。商人もまた結束して自分たちの権益を守る。そういう社会。


それに対して近世は、農民は武装解除して領主に保護してもらう。商人も領主の保護下で商売をする。その代わりに年貢や冥加金を払う。そういう社会。近世においても自治はあったけれど、中世と比べたら大幅に自治権は制限された。例外はあるかもしれないけど大雑把にいえばそんな感じ。


そう考えれば、楽市楽座の革命的な意義とは、商人の権利を領主が保護する代わりに自治権が奪われて、領主の統制下に入るということではないのか?


普通に考えればそういうことだと思うんだけれど、ちょっと調べてみた限りでは、そういった説明がなくて、単に「革新的」とか書いてあるだけだったりするから困る。


で、それが「革新的」だという「従来の説」が否定されるというのは、そういう意味での「革新的」な政策ではなかったということを意味するんだと思うんだけれども、そこんところが、諸解説を読んでもどうにも理解するのが難しく、なおかつ中には「なんでそれだと革新的じゃなくなるの?」って疑問が出てくることもあって、なんかよくわからない。

楽市楽座令は信長が初めてではないという件について

これについては既に書いた。そんなことは近年わかったことではなく戦前からわかっていたことだ。1549年に近江六角氏が石寺新市に出した楽市令のことは小野均という学者が1928年に考察しているという(『信長の政略』谷口克広)


そんな前から知られていることが、なぜ今になっても、しつこく言われているのか?楽市楽座に言及したものには誤解されてるかのように書かれている頻度が高い。そういう書き方ではなくてナチュラルに「楽市令の初見は近江石寺で」とか書けばいいのに。そういう書き方をすると書き方によっては最近わかったことみたいにそれこそ誤解する人も出てきてしまうのではないか?


そもそも我々はそんな誤解をしていたのだろうか?「信長が初めてではない」と言われると、へーっと思って、あたかも自分がそれまで「信長が初めてだった」と信じていたみたいになるけれど、本当にそうだったのだろうか?


確かに「楽市楽座」といえば信長である。そういう認識があることは確かだろう。しかし「信長が初めてだった」と思っていただろうか?そもそも誰が初めてかなんてことに関心などなかったのではないだろうか?「誤解」していたのではなくて「知らなかった」だけではないだろうか?そりゃ中には信長が始めたと思っていた人もいるかもしれないけれど…


で、俺は信長が初めてではないということは戦前には知られていたけれども、それが無視されて、信長研究において信長が始めたという誤った理解がされてたのではないかと推測したんだけれど、どうもそういうことは無かったようで。つまりこれは「信長研究の最前線」でもなんでもなかったようで。


じゃあ一体誰が誤解してたというんだろうか?小説やアマチュア研究家の書いた本にそう書いてあったのだろうか?あったのかもしれないけれど「誰々がそう書いているがそれは間違い」みたいな話は検索したところでは見つけられなかった。


なんだかよくわからない話。


で、もちろん昔からわかっていたのだから信長が革命者だとされていた頃にももちろん研究者は知っていたはずのことで、それでも革命者だったわけでしょう。だから信長は革命者ではなかったと言われる原因がそれだとは思えない。少なくとも主要な原因ではないでしょう。


この他にも、最近の研究かと思えば、そうではなかったものがあって、それが頭を混乱させる。


どの部分が最新なのだ?