楽市楽座とは何だったのか?(その1)

楽市楽座とは何だったのか?何だったのかというのは、従来の見解が見直されているという中で、従来の見解とはどういったもので、現在の見解はどういったものか?そしてこれが「中世から近世へ」という時代の変化の中でどうい意味を持っていると考えられるのかということ。とりあえず信長の独創ではなかったとか、そんなことはどうでもいい。


なお、既に書いたように俺は「楽市楽座」というものにほとんど興味がなく「楽市楽座って既得権を廃止したものでしょ」くらいの認識しかなかったので、ほぼゼロからのスタート。


まずウィキペディア

既存の独占販売権、非課税権、不入権などの特権を持つ商工業者(市座、問屋など)を排除して自由取引市場をつくり、座を解散させるものである。中世の経済的利益は座・問丸・株仲間によって独占され既得権化していたが、戦国大名はこれを排除して絶対的な領主権の確立を目指すとともに、税の減免を通して新興商工業者を育成し経済の活性化を図ったのである。

楽市・楽座 - Wikipedia

うん、そうだよねって思う。俺が学校で習ったのもそんな感じだった。ということはこれは「従来の説」ということになるのか?だとして最近の研究では何が否定されたのか?


同じくウィキペディアの記事にこうある。

更に近年では中世日本の都市を中世西欧の自由都市と比較しようとして、楽市・楽座そのものを過大評価しているとする批判もある。そもそも楽市自体が城下町や領内の主要都市に商人を集めるための政策であり、大名がこうした地域に対して何らかの統制を意図しなかったとは考えられないというものである。

「大名がこうした地域に対して何らかの統制を意図しなかったとは考えられない」この意味がわからない。「いやそりゃそうでしょ」って思う。だって、それこそが「中世から近世へ」ってことでしょう。まあその前に「中世日本の都市を中世西欧の自由都市と比較しようとして云々」とあるのからして謎だ。楽市楽座」は中世を破壊するものではないのか?

また、一見して商人による自治を認めながら、実際にはその自治の責任者の地位にいるのは大名の御用商人や被官関係を結んで商人司など大名が定めた役職に任じられたものであり、商人司を通じて大名の経済政策に沿った方針が浸透していたと言われている。更に織田政権が楽市・楽座を推進する一方で座の結成・拡張を図っている事例もある。

これも謎。だって、それこそが「中世から近世へ」ってことでしょう。違うの?自治的な中世から集権的な近世へってことではないのか?

つまり、楽市楽座は一見上は規制緩和を掲げながら、実態は大名による新たな商業統制策であって江戸時代の幕藩体制における商業統制の先駆けであったとする指摘もある。

だから、そりゃそうでしょう。冒頭に「更に近年では」とあるけれど、これが近年の説なのだろうか?だとしたらむしろ信長は革命児と評価されるべきだという逆の話になってしまいそうなんだが。


何かおかしい。まあ所詮ウィキペディアだし、ってことなんだろうか?