ジョン・ケージの『4分33秒』

「音極道茶室」で紹介されていた、YouTubeにアップされている演奏を聴きました。
http://www.virtual-pop.com/tearoom/archives/000156.html


まあ、聴いたと言えるのかどうか…どうにも耐えられない。疲れる。息が詰まる。間がもたない。
一応演奏なのだから、客は音を出しちゃいけないって意識になるのだろう。
ピーンと張り詰めた空気が、こっちにも伝わってくる。(でも咳払いしちゃう人が何人かいるんだよね。)
そりゃ、楽章と楽章の合間に咳もしたくなるってものだ。
まあ、こっちは自分の部屋で聴いているのだから楽なものだ。
途中でテレビ(消音モードではない)つけて、そっちを見ながら「聴いて」いました。
そういう聴き方もありかなってことで…


ウィキペディアによると、

無音を聴こうとして入った場所で、なお音を聴いたことに強い印象を受けた。

ことが作曲のきっかけだったそうだ。そりゃそうだ。完全な無音なんて無理でしょうね。
夜、寝ようとすると、耳鳴りがして、しばらく寝付けないことがある。で、それは夜になると耳鳴りがするわけではなくて、昼だって鳴っているんだろうけど、周囲の雑音があるんで気付かないだけ。ひどい耳鳴りは病気だろうけど、誰だって耳鳴りはある。意識しないだけ。
耳鳴りのことは置いておいても、リスニングルームなんて贅沢なものがない我が家では、音楽を聴いているといっても、外で車が走る音や、犬が鳴く声を同時に聴いているわけだ。
ついでに、聴くだけじゃなく、「見る」の方も、テレビを見るといったって、あまりきれいとは言えない俺のテレビの埃や傷も同時に見ているし、テレビの裏側にある壁も見ているわけだ。というか俺の場合、子供の時から視野の中に虫のようなものが見える(飛蚊症)。たまにひどく気になることがあるが、もう何十年もそういう状態と付き合っているので、普段は無いものとして気にしない。


で、人は普段から、聞こえているし、見えてはいるが、それを無いものとして無視するように出来ているようだ。日本人なんて「黒子」が見えていても、存在していないことになっているという「お約束」さえある。慣れるというのは便利なものだ。


そういえば昔聞いた話では、外国人は日本に来ると醤油の匂いが気になるそうだ。我々は気にならない。ただし、俺は子供の頃は、友達の家に遊びに行ったり、普段行き慣れていない場所に行ったりすると、ひどく醤油の匂いが気になる場合があった思い出がある。今は気にならない。


普段は気にしていない、それらのものを『4分33秒』気付かせる効果がある(かもしれない。そんなことは考えないで、面白ネタとして楽しむのもありだろう)。で、これは何も芸術だけのことじゃなくて、我々の世界には「お約束」があって、はっきりと目に見えているのに見えない、無意識に除外しているということが結構あるよねということも考えさせてくれる(かもしれない)。


ところで話はいきなり変わるが、「4分33秒=273秒」「絶対零度(-273℃)=無」という説があるそうなんだが、
ジョン・ケージ:4分33秒」
http://ww2.ctt.ne.jp/~a-k/disc/cage_433.html
によると、これについてマーティン・ガーディナー(ガードナー)が言及しているのだそうだ。へぇー。