リベラルの攻撃性

■相対主義と気遣い −ARIAから見るリベラルの形成−ロリコンファル)
正直アニメの話は全くわからないんだけど、

なんでリベラルを名乗る人達が常にこうむやみやたらに攻撃的なことが多いのか正直よく分からない

というのは、俺も前々から持っている疑問。
典型的なのが先日のNHKでの討論番組での、話し合いが大切といいながら、相手の話を聞かない。話の邪魔をする人(リベラルと呼べるのかわからないけど)。外部から見れば奇妙な行動に見えるけど、これを単に批判してもしょうがない。彼、彼女の中ではそれで矛盾していないのだろう。なぜそうなるのかを考えるべき。


で、結論から言えば、やはりそこには「絶対的」なものがあって、そこから外れるものは認めない(というか見えない)のだろうと思う。
彼らの言う「話し合い」とは、彼らの許容範囲内での「話し合い」であって、それ以外のものは「意見」ではないのであろう。「意見ではない」とは、自分と異なる意見を認めないということではなくて、「意見ですらない」という意味。じゃあ何かといえば、具体的に言えば「別の意図を隠すまやかし」、「権力者に騙されている可哀想な人」あるいは「狂人」のたわごとということ。


かつての共産圏の国、又は今でも一部の国で、体制に都合の悪い人間を「裏切り者」とか「資本主義国のスパイ」とみなしたり、「再教育」したり「精神病院」に収容したりしたのは、実質的に逮捕監禁しているのをごまかすための名目というだけではなかろうと思う。絶対的に正しいイデオロギーに従わない・落ちこぼれるというのは、「有り得ないこと」であり、それにもかかわらず、そういう人間が存在する理由が、「敵国に通じている」とか「教育が足りない」とか「頭がおかしい」という結論に行き着くのは必然ではなかろうか。(このへん詳しく解説してある本を探しているんだけどなかなか見つからない)


もちろん「リベラル」と自称・他称している人はそこまで極端ではないだろうけど、そういう傾向があると思います。それは、そういう人もいるが、そうでない人もいるということではなくて、リベラルが持つ必然的傾向だと思います。だからリベラルは駄目だというつもりはなくて、それを自覚して、抑制できる人と、できない人がいるということだと思っています。


で、こういうことは大いに議論してほしいと熱望しているんですね。俺も参戦したいけど、悲しいことに知識が足りない。日々の出来事についてあれこれ討論するのも結構だけど、もっと根本的なことについて知りたい。ブログ界にはそういう方面に詳しい人もたくさんいるだろうと思うんだけど、なかなかそういったものを見つけられない。


ところで、kagamiさんは、「リベラルを名乗る人達」について書いているわけだけど、それには、「夢想的で攻撃的な右派だってごろごろいる」という反論がなされている。(⇒「想像力はベッドルームと路上から」)
まあ、現実にそういう人達は存在するんで当然すぎる反論です。ここに「保守」とは何かという重要な問題が提起されていると思うんですね。もっと突き詰めれば「保守」は伝統を尊重するというが、ここでいう「伝統」とは何かということになるんだと思います。一口に「保守」と言ってもいろいろあって、その中には過去を「理想社会」として、現実をそれに合わせようとする「保守」も存在しますよね。そのへんも突っ込んで議論してほしいなと思います。(単に性格として攻撃的な人や口が悪い人もいるでしょうし)


追記:(読み返してみたら「だろう」「思う」を多用してるけど、実際に断定できるほどの知識を持ち合わせてないんであしからず)