「みんなの意見」?

池田信夫 blog:「みんなの意見」は正しいか

こうした問題について、スロウィッキーの『「みんなの意見」は案外正しい』がよく引用されるが、これは「集団の知恵」で成功した例を列挙しているにすぎない。現実には、WikipediaLinuxの成功の陰には、何百という失敗したオープンソース・プロジェクトがある。集団的選択理論が教えるように、ほとんどの民主的な意思決定は間違っているのである。むしろ重要なのは、こうした間違いを事後的に修正するフィードバック装置だ。

こういう言論は、いくら大量に生成されても、情報の質を高める役には立たない。事実、日本のWikipediaには、単純な事実誤認が本家よりもはるかに多く、確認には使えない。いま必要なのは、みんなの意見は必ずしも正しくないという懐疑主義にもとづいて、事実をチェックするしくみを整備することだろう。

俺は「スロウィッキー」も知らなければ、「集団的選択理論」も知らないド素人なんだけど、何か違和感がある。これを読んだとき、真っ先に思い浮かんだことは、「死ぬ時は一人」という言葉。正確にはどういう意味なのかは知らない。ただ何となく。


何が言いたいかといえば、ウィキペディアは多数の参加者によって成り立っているが、編集するときは一人ってこと。


ただし、必ずしも一人ではないかもしれない。もしかしたら私設ウィキペディア監視委員会みたいなのがあって、そこで、
「諸君、今日はこの記事について検討しよう。この記事に修正の必要有りや無しや、各々の意見を聞かせてもらいたい」
「さて議論も出尽くしたようなので決を取ります。修正に賛成の方は挙手をお願いします。賛成多数なので修正することに決定しました」
みたいなのがあって、それから編集している集団が存在するかもしれない。
そこまでいかなくても、知り合いに記事を見せて、
「この記事のこの部分は不適切じゃないか?」「俺もそう思う」「そうかじゃあ編集しよう」なんてこともあるかもしれない。


しかし、通常思い浮かべるのは、一人で編集している風景。確かに一つの記事は多数の参加者によって作られている場合もあるけど、今現在自分が読んでいる記事は、最後に編集されたもの(ただし「履歴」を見れば前の状態を見ることができる)。
極端な話、「1たす1は2である」という記事を編集して、「1たす1は2でない」とすれば、全く違った記事になる。これを複数の人が作成にかかわったからといって、「集団の知恵」とは呼ばないだろうと思うのです。ド素人だから本意を理解していないかもしれないけどね。