俺がトンデモを批判する理由

なぜかといえば俺自身がトンデモだから。


ただし、「トンデモ」の定義は幅広いので、まずはその説明。「トンデモ」の元々の意味は、

と学会(ウィキペディア)
トンデモ本(ウィキペディア)


にあるように、
① 「著者の知識の欠如や妄想により、著者の意図とは異なる楽しみ方ができるようになってしまった」本が「トンデモ本」であり、そのようなものを「トンデモ」と呼ぶのが本来の使い方。


しかし、一般には、
② 「疑似科学エセ科学)という評価を受けている事象を真正の科学であると主張したり、オカルトを本気で主張している本、さらには単に内容が出鱈目」の本が「トンデモ本」と言われ、そんな主張をする人のことを「トンデモ」と呼ぶ。


俺は個人的に、さらに拡大して、
③ 専門家の世界である学界で相手にされていない、まともに受け取られていない新説・異説一般を「トンデモ」と呼ぶことにしている。


②と③は同じではないけど、学問の発達した現代では、専門家に相手にしてもらえないような説は、大雑把に言えば、ほぼ重なるといってよい。


しかし、自然科学はともかく、社会科学、特に歴史学民俗学・文学等の問題に関しては、古代から現在進行中の事柄に至るまで、現在の定説が塗り変わる余地は大いにあると思うんですよね。もちろん学界内でも定説に対して異説が唱えられているものもたくさんあるんだけど、現在唱えられている異説だけでなく、発想の転換をすれば、他にもさまざまな可能性が考えられる分野だと思います。さらに自然科学と違って、実験施設の必要もないので、例外はあるけれど、専門家でなければ扱えないというものでもないと思います。


で、実際に歴史分野は、専門家だけでなく、作家や作家以外の文化人、民間の研究者が、大量の異説・新説を唱えています。ただ、その中には、当然といえば当然のことだけど、無茶苦茶な説が山のようにあります。詳細に検討しなくても、ちょっと考えれば素人が見ても変だとわかる、論理の破綻、事実の誤認、都合の良い部分のツマミ食いが横行していて、しかも、その中にはベストセラーになるようなものもあるわけです。


でも、そんな中にも、ほんのわずかだけど、「お宝」がある場合があると思うんですね。俺の見た中では八切止夫氏がそれに該当すると思います。八切氏と言えば『信長殺し、光秀ではない』『上杉謙信は女だった』が有名ですけど、一般的にはトンデモとされていて、というか俺も全体的に見ればトンデモだと思うのだけれど、ところどころに鋭い視点があると思うんですね。そこをもっと深く検証してみれば、新しい発見があるのではないか、結果的にないとしても検証してみる価値はあるのではなかろうかと思ったりします。


俺は、現在の学界でまともに取り上げられていないものであっても、定説を覆す「種」が民間に(極めて少数だけど)あると考えていて、俺自身も今の定説になっていない独自の考えがあるから、出鱈目でいい加減なトンデモ説と同列に扱われたくない。そのためには、自分自身が出鱈目でいい加減であってはならないと考えていて、また「疑似科学」とは何かということを真剣に考えているってわけ。