黒歴史(3)

「逆説の日本史」の「史料至上主義批判」。

これは別の言葉で言えば実証主義だ。
現代の裁判のように、物的証拠がなければ、それに対応する事実が存在しないという立場をとるのである。そして物的証拠に基づいていない推理・推論は、「想像に過ぎない」と退けられることにもなる。
こういう考え方は厳正であるには違いないが、あまりにもこだわり過ぎると大きな落とし穴にはまり込む、と私は考えている。
まず、歴史上のことについては裁判ほど物的証拠(史料)はない、ということがある。当然その隙間は推理で埋めていく他はないのだが、こういう考え方(実証主義)にこだわり過ぎると、まず推理する能力が低下し、その結果、歴史の解釈力も衰えることになる。
『逆説の日本史(1)』序論 日本の歴史学の三大欠陥

これを読んだときには、本当に感激しました。まったくその通りだと。それがわからない歴史学界はどうかしていると。


しかし、後々、歴史関係の本を読んでいくと、同趣旨のことが書いてあるものを度々目にする。何のことはない、これは現代の歴史学にとって重要な問題の一つなわけですね。典型的な例が従軍慰安婦を巡る「上野・吉見論争」。詳しくは内田樹先生のところで。
社会理論の汎用性と限界


まあ、難しすぎて良くわからないんですけどね。俺が考えるに、歴史研究において必要な史料が完璧に揃っているなんてことは滅多にない、というか一つとしてないと思うわけで、どんなバリバリの史料至上主義者であっても、一つや二つの推理はしているだろうと。あとは、その推理にどれだけの説得力があるのかつうことで、「定説」と言っても推理が入っている以上、あくまで「仮説」に過ぎないわけで、覆される可能性もあるわけで、その「仮説」も99%間違いないだろうというものから、諸説ある中で、これが一番もっともらしいだろうというものまであるだろうし…


で、難解な話は置いといて、「史料」がないと本当に認められないのかというのを考えてみるに、「厩戸皇子」はどうなんだと。『日本書紀』には間人皇女が厩の戸に当り太子を安産したと書いてある。史料にそう書いてあるのに歴史家はそれを信用しない。生誕地が厩戸という地名であったので名づけられたという説が有力だ。「厩戸」という土地で生まれたから厩戸皇子なんだという史料なんてないのに。

『書紀』のいう所は、あまりにも見えすいた文飾である。太子誕生の敏達天皇三年(五七四)においては、皇太子妃にもなっていない間人皇女が臨月の身で禁中を巡行し諸司を観察するなどということは、およそ考えることのできない事実である。(中略)古人の名は生まれた土地か、ゆかりある人か、乳母の氏名などからつけられるのが例であり、厩戸もその例外ではあるまい。

と書いたのは、井沢氏が「史料至上主義」とさんざんに非難する坂本太郎博士(『坂本太郎著作集第九巻』)。ちなみに俺はこれについて思うところがあるんだけれど、それはそれとして、史料にないから認められないというわけじゃないって話。


ついでに坂本博士は、こんなことも書いている。

そういうように、憲法十七条は隋書に書いてないのです。
(中略)
内容から考えますと、疑わしいところはもはや少しもなくなってきた。ただ、隋書にない。ほかに傍証するものがないだけでありますが、傍証するものがなくてもいろいろな点からいってさしつかえないとなれば、事実と認めるべきであろうと私どもは考えるのです。
(「憲法三経義疏は伝説なのか」同上)

憲法十七条については今でも議論の的になっているから、この主張が正しいのかというのはあるけれど、それはこの際関係なくて、「物的証拠がなければ、それに対応する事実が存在しないという立場」ではないことはわかる。