倭姫王の歌の謎 (3)

ここからは俺の「トンデモ」説。


倭姫王の歌の解釈を、こうして見てくると、「史料至上主義」って一体何だ?と思ってしまう。史料に書いてあっても、それは間違いだとか、誤記であるだとか、拡大解釈するとか。結構自由にやっている。それはそうしないと「意味不明」になってしまうので仕方のないことなのかもしれないけれど。だけど、ここはあえて、原点に戻って「史料至上主義」を徹底してみた方が良いかもしれない。

一書に曰(い)はく、近江天皇(あふみのすめらみこと)の聖体不与にして御病(みやまひ)急(には)かなる時、大后の奉献(たてまつ)る御歌一首
一四八 青旗(あおはた)の木幡(こはた)の上をかよふとは 目には見れども直に会はぬかも

その1 病が急だというのだから、天皇崩御していない。「一書に曰く」が気になるけれど、まずは生きていることを前提に考えるべき。
その2 「木幡」は地名。これは譲れない。ただし「山科」とは書いていない。
その3 「目には見れども」と書いてあるのだから、実際に目で見たのである。皇后が「幻」を見た可能性もあるけれど、まずは、誰もが見ることが可能なものを見たのだと考えるべき。
その4 皇后の居場所は不明。常識的に考えれば近江のはず。ただし皇后はシャーマン的属性を持っていたと考えられるので、聖なる場所で天皇の回復を祈っていたかもしれない。しかし、やはり近江と考えるべきだろう。


以上を前提条件にして考えてみる。特に重要なのは、皇后は「目には見れども」と言っているということ。皇后が見たのは「霊魂」だという解釈が一般的だが、「霊魂」を見ることが果たして可能であろうか?無理だと思う。だから、桜井満氏も「信仰的に感じている」としたのであろう。しかし「目には見れども」と言っているのであり、それを「感じている」とするのは拡大解釈だ。


皇后が「感じた」のではなく「見た」のだとすれば、天皇の魂が宿っている、あるいは天皇の魂が実体化した何物かを見たと考えるしかないのではなかろうか。それは、たとえば井上道泰の言うように「人像に似たる白雲」であるとか、あるいは死者の魂だと考えられた「鳥」であるとか、あるいは「その他の何か」ということだ。


最初、俺は皇后が見たというのは「鳥」ではないかと考えた。だが、鳥だとすると、それは「木幡」の上を飛んでいるのである。「木幡」が「小旗」のことであるなら、鳥は近江の空を飛んでいるのであり、皇后に見えても不自然ではない。しかし、「木幡」が地名だとすれば、近江にいる皇后に見えるわけがない。そして、契沖が主張する「木幡」=地名説は説得力があり、覆すのは難しい。従って「鳥」ではない。同じく「人像に似たる白雲」も近江から見るのは不可能であろう。だから井上道泰も、それを見たのは皇后でなく「宮人」だとしたのだろう。


すると、皇后が見たのは、「その他の何か」ということになる。それは何か?俺は一つだけ可能性があると思う。


それは「カミナリ」。カミナリなら遠くからでも見ることができる。


皇后が見たものは、木幡の山の上を「行き来」していた。「行き来」していたというのを、従来の説では、鳥が空を飛ぶような、あるいは雲が空を移動するような、つまり、水平方向での移動であると解釈している。しかし、天と地という上下の移動であっても不都合はないのではないか(上下の場合は「かよふ」は使用しないとかあるのだろうか?専門家じゃないので自信ないけど)。


「カミナリ」であるとすれば、様々な問題が解決するのではないか?天皇が危篤状態になった。呼びかけても返事はない。まさにその時、空が騒がしくなった。外を見ると「木幡方面」で雷が光った。それは天皇の魂が天に昇っていくかのようであった。その様子は目には見えるけれど、もはや直接に会えないことだ。歌の意味はそういうことではないか?


ちなみに「雷」は「竜」を連想させる。そして「竜」は「天帝」の「馬」である。『扶桑略記』の記述は後世に出来た伝承だと思うが、天智天皇が山科に馬に乗って出かけたまま帰ってこなかったという話。また天智天皇が山科で登天したという伝承もある。これらは倭姫王の歌が発展した話と考えることも可能かもしれない。


もちろん、以上は俺の独自の考え。


(参考)
中国の龍と雷