「やまうちようどう」で正しい

「やまうちようどう」の謎 - 猫を償うに猫をもってせよ

 『竜馬伝』で、山内容堂を「やまうちようどう」と呼んでいる。これは『功名が辻』の時に、従来やまのうちと読まれてきたが、浅井茶々の手紙と『寛政重修諸家譜』に「やまうち」とあるからと訂正したものだ。

 しかし、それならいったいいつから「やまのうち」になったのかを確認しなければいけないのだ。もしかすると新井白石の時代以後「やまのうち」になったのかもしれず、むろん混在していた時期もあっただろう。仮に一豊が「やまうち」だったとして、幕末期にみなが「やまうち」と読んでいたら、明治以後「やまのうち」と言われたら、山内家で訂正したはずだと思うのだが。


土佐山内氏 - Wikipedia

土佐山内氏(やまうちし)は日本の氏族。本家は「やまうち」で、各分家は「やまのうち」を称する。


武家家伝_山内氏

なお、土佐山内氏は宗家が「やまうち」、支封は「やまのうち」を称した。


というわけで、「山内容堂」は元から「やまうちようどう」であった。ただし、容堂こと豊信は分家の出身なので、藩主になる前は「やまのうち」だった。


土佐山内氏は藤原秀郷を祖とし、七代後の資清が首藤を称したとされる。資清の曾孫の俊道が鎌倉の山内(やまのうち)荘に居住して山内氏となり、その子孫であるという。ただし、俊道の後裔の山内氏の本流は山内首藤氏であり、江戸時代に毛利氏の家臣として存続した。こちらの山内は「やまのうち」と読む。
(『山内一豊小和田哲男・『検証・山内一豊』渡部敦)


本来の山内氏は「やまのうち」だが、尾張に土着した山内氏が「やまうち」と呼ぶようになった理由は不明。小和田氏は土佐山内氏は別系統で「偽系図」を作ったのだと推理している。一方、渡部氏は1418年の「山内道家所領売券」の端書裏に「やまうち」と記された例を出し、室町期に「やまのうち」と「やまうち」が混在していたことを指摘する。丹波地方の山内氏も「やまうち」と呼ぶそうだ。


このようにして見てくると、土佐では「やまうち」だったのが、なぜ「やまのうち」と呼ばれるようになったのかが逆に謎だけど、明治以降に本来は「やまのうち」だったから「やまのうち」が正しいということになったのかもしれない。さらに調べてみたい。


(追記)
マイナー武将列伝・山内 一豊

 『別冊歴史読本 日本の吊家・吊門人物系譜総覧』(新人物往来社・刊)の記述。
   『平成新修旧華族家系大成』によると注釈があり
   土佐山内家(旧侯爵?)と分家(旧子爵)・一門(旧男爵)の三家は「やまうち《
   土佐新田山内家と分家(旧男爵)の二家が「やまのうち《
 と記されています。