リフレ派とニセ科学 (その2)

そもそもリフレ派の立ち位置は「ニセ科学」と「反ニセ科学」のどちらに近いのだろうか?


リフレ派は、
「自分達の主張は正しいのに受け入れらず、不当な批判をされている」
「自分達の主張が受け入れられないのは、正当な理由からではなく、学問とは別の理由からだ」
という意見が多いように俺には見受けられ、それはニセ科学者のよくある主張とかぶる。具体例で言えば、『逆説の日本史』における井沢元彦歴史学会批判と瓜二つであるということは前にも書いた。
リフレ派と「逆説の日本史」


それはお前の偏見だと思う人もいるかもしれないけれど、偏見であれ、少なくとも俺はそういう印象を持っているというのは事実であるし、最近のネット界の言論を見れば、俺だけではないとも思う。


で、もし仮に、そういうリフレ派の人達が「自分たちは『正しい』のに、なんで・・・」と考え、あるいは「リフレを否定する者たち・リフレを否定する経済学はニセ科学だ」と考えて、「反ニセ科学」と結託しようとしている(俺は疑問に思うけれど)のだとしたら、「反ニセ科学」側がどうそれに答えるのかは興味深いところだ。



ちなみに、『きわどい科学』(マイケル・W・フリードランダー 白揚社)の「〔第3章〕革命はおずおずと-その成功と失敗と」には、ウェゲナーの大陸移動説についてこう書いている。

 私たちはロングウェルに、真に過激な理論が現われたとき、それを即座にはねつけるようなことはせず、進んで批判的な検討を加え、高度な証明が現われるまで判断を待とうという科学者の姿を見る。

この事例の研究は私たちに、何を教えてくれているのだろう? それは科学社会の保守性であり、たとえ少しの証拠はあるかもしれないが、結論を下すには不十分と思われる過激な学説を、一気に受け入れることはないという体質である。

きわどい科学―ウソとマコトの境域を探る

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