同性愛と伝統(その2)

続きを書こうと思ったんだけれど、いつもの調子で空想を交えて書くと、事が事だけに面倒なことになりかねないので躊躇する。


ただ、今流行の「日本は伝統的に同性愛に寛容だった」論は、結論ありきでろくな検証がなされていないと感じるということだけは強調しておきたい(それが学者の研究であっても怪しげなのはある)。もっと本格的な研究が広くなされることを望む。


それと、これらの主張で紹介されている事例は全て「男の同性愛」だ。これをもって「日本は伝統的に同性愛に寛容だった」として、現代の問題に繋げることができるのだろうか?「男の同性愛」も同性愛に違いないだろうけれど、個人的には「男性愛」と呼ぶべきものではないかとも思う。すなわち同性愛と異性愛で区切るよりも「男が男を愛する・女が男を愛する」と「女が女を愛する」で区切るべきものなのかもしれないと思うのだ。


仏教には変成男子という思想がある。

古来、女子(女性)は成仏することか非常に難しいとされ、いったん男子(男性)に成ることで、成仏することができるようになるとした思想。

変成男子 - Wikipedia

女は転生によりランクアップして男になる。すなわち男の方が尊いということだ。とすれば女を愛するより男を愛する方が尊い行為ということになるだろう。あくまで俺の空想であって、そういう学説があるのかは知らないけれど、もしかしたら「日本は伝統的に同性愛に寛容だった」というのは女性蔑視と一体になっているかもしれない。そういうところまで想像力を働かせる必要があるのではないか(インドのカースト制にも通じるし)。



あと、「好色一代男」だとか「東海道中膝栗毛」などを例に、同性愛に寛容だったというのはどうなんでしょうね?もちろん当時の世相を反映していることは間違いないんだろうけれど。この問題が頻繁に取り上げられるようになったのは、話の流れとして東京都の表現規制が絡んでいるように思うんだけれど、作り話であるこれらの事例を基にして現実を論じると言うのは、現実と創作を混同しているという点で、本末転倒なんじゃなかろうかという気がしなくもない。